全国こども考古学教室

調べてみよう 〜時代解説(じだいかいせつ)〜

時代(じだい)のながれ

時代(じだい)のながれ

この年表(ねんぴょう)は、日本列島(れっとう)の歴史(れきし)のおおまかな流れです。
日本列島(れっとう)は南北に長いので、地域(ちいき)によって、
気候(きこう)や生活のしかたに違(ちが)いがあり、歴史(れきし)の流れもさまざもまです。
地域(ちいき)によって、どういう違(ちが)いがあるのか、いっしょに考えていきましょう。

時代(じだい)のながれ2

「〇〇時代(じだい)」の年代について

 文字のない大昔の年代をどのようにして決めるかというと、科学的な方法ではかるほか、考古学(こうこがく)では、文字のある時代(じだい)の年代のわかるものを基準(きじゅん)にして、おおよその年代をみちびきだしています。しかし、どちらの方法も「だいたい何年ごろ」という言い方でしかあらわせません。
 ここに書いた各時代(じだい)の年代は、現代(げんだい)のように、20XX年〇月〇日と言いきることはできず、また専門家(せんもんか)の考え方も、かならずしも同じではありません。だから「だいたい」ということで、理解しておいてください。

「世紀(せいき)」という言い方

 これからの説明に、「3世紀(せいき)」とか「5世紀(せいき)」、あるいは「紀元前(きげんぜん)2世紀(せいき)」などの言い方がでてきます。「世紀(せいき)」とは、イエス・キリストが生まれたとされる年を1年とする「西暦(せいれき)」で、西暦(せいれき)1年から100年ごとに区切る単位のことです。
 だから、1年~100年までが1世紀(せいき)、101年~200年までが2世紀(せいき)、西暦(せいれき)1年より前は「紀元前(きげんぜん)」という言い方で、「紀元前(きげんぜん)1世紀(せいき)」は −1年 ~ −100年までのことです。私たちが生きる現代(げんだい)は、21世紀(せいき)です。

紀元前、紀元後の図解

旧石器時代(きゅうせっきじだい)

旧石器時代(きゅうせっきじだい)は寒かった

❶ 旧石器時代(きゅうせっきじだい)は寒かった

 人類(じんるい)は、約700万年前にアフリカで誕生(たんじょう)しました。そして、260万年前ごろから、石を打ち割(わ)ってつくった打製石器(だせいせっき)を作りはじめます。道具を作るというのは、他の動物ではみられない、人類(じんるい)だけの特徴(とくちょう)です。
 人類(じんるい)が道具を作り、使いはじめた最初の時代(じだい)を、旧石器時代(きゅうせっきじだい)とよびます。地球(ちきゅう)には、260万年前から現在までずっと、氷期(ひょうき)という、とても寒い時期がたびたび訪れています。氷期(ひょうき)と氷期(ひょうき)の間の暖(あたた)かい時期は短(みじか)く、ほとんどが寒冷(かんれい)です。いちばん最近の氷期(ひょうき)は7万年前ごろからはじまり、およそ1万年前に終わったと考えられていて、いまわかっている日本列島(れっとう)の旧石器時代(きゅうせっきじだい)は、この最後の氷期(ひょうき)にあたります。

日本列島(れっとう)の旧石器時代(きゅうせっきじだい)

❷日本列島(れっとう)の旧石器時代(きゅうせっきじだい)

 4万年前ごろ、人類(じんるい)が日本列島(れっとう)にもやってきます。そのころの日本列島(れっとう)は大陸とはつながっていなかったので、船(ふね)で渡(わた)ってこなければなりません。しかし、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の遺跡(いせき)からは、船(ふね)そのものが発見されていないので、人々がどうやって日本列島(れっとう)に渡(わた)ってきたのか、大きな謎(なぞ)です。
 それでも人類(じんるい)は、日本列島(れっとう)の各地に広がり、どんどん増えていきました。いま日本では、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の遺跡(いせき)が1万か所以上みつかっています。日本の面積を考えると、世界的にみても大変な多さといえます。日本列島(れっとう)は、昔から住みやすい島だったようですね。

もっとも寒かった時

❸もっとも寒かった時

 いまから2万年前、最後の氷期(ひょうき)のなかでもいちばん寒くなりました。そのころの平均気温はいまより7~8℃低く、宮崎県(みやざきけん)や福岡県(ふくおかけん)が北海道(ほっかいどう)のような寒さだったと考えられています。
 寒くなると、海から蒸発(じょうはつ)した海水の一部が雪となって降(ふ)り積(つ)もり、陸地で氷河(ひょうが)になるので、海水の量が減(へ)り、海水面が低くなります。北海道(ほっかいどう)は大陸と陸つづきとなり、本州と四国、九州はひとつの島になりました。平地に生えた植物は、現在なら標高(ひょうこう)1000m~1500mの高い山に生える植物でした。木もあまりたくさんはなく、平野(へいや)には草原が広がり、ナウマンゾウやオオツノジカのような大きな動物がすんでいました。
 だから、瀬戸内海(せとないかい)の海底で、ナウマンゾウの骨がみつかったりします。いま、海の底になっているところをナウマンゾウがのしのしと歩いていたのです。(「行ってみよう岡山県(おかやまけん)」をみてね)

人々の暮(く)らし

❹人々の暮(く)らし

 この時代(じだい)の日本列島(れっとう)の森には、カラマツのような針葉樹(しんようじゅ)とブナなどの広葉樹(こうようじゅ)がありましたが、食べられる実のなる木は少なかったようです。人々は動物を追いかけて、狩(か)りをしながら、移動(いどう)する生活をしていました。そのころの動物には、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大きな動物のほかに、イノシシやノウサギ、アナグマなどもいました。人々は落とし穴(あな)をほって罠(わな)をしかけ、槍(やり)という刺(さ)す道具で動物をつかまえました。
 また、人々は、草原にテントのような住まいを作るほか、洞窟(どうくつ)や岩陰(いわかげ)を住まいや墓(はか)として利用することもありました。住まいは簡単(かんたん)なものだったようで、建物(たてもの)の跡(あと)だとはっきりわかる遺跡(いせき)の発見例(れい)は、まだ少ないです。でも、石器(せっき)がまとまってみつかって、人々がしばらく暮(く)らした場所だとわかる遺跡(いせき)はたくさんあります。

いろいろな道具

❺いろいろな道具

 この時代(じだい)の道具としては、木や骨でつくったものは腐(くさ)ってしまって残っていませんが、石を打ち割(わ)ってつくる打製石器(だせいせっき)がたくさん発見されています。どんな石でも石器(せっき)が作れるわけではありません。石器(せっき)の材料(ざいりょう)になるのは、割(わ)れ口が鋭(するど)い刃(は)になるような石です。なかでも、黒曜石(こくようせき)は、自然にできたガラスのような石で、とてもよく切れます。そのほか、チャート頁岩(けつがん)、サヌカイトなど、地域(ちいき)ごとに石器(せっき)作りに適(てき)した石が使われました。
 主な石器(せっき)には、狩(か)りの道具である槍(やり)をはじめ、動物の肉を切ったり、骨や木などを削(けず)ったりする小型のナイフのような石器(せっき)、穴(あな)をあけるための錐(きり)のような石器(せっき)などがあります。
 また、この時代(じだい)には世界的に珍(めずら)しい、石をすり磨(みが)いてつくる磨製(ませい)の石斧(いしおの)もたくさんみつかっています。この石斧(いしおの)は、大きな動物の狩(か)りや、木を伐採(ばっさい)して削(けず)ったり、動物を解体(かいたい)したりするための道具として使われたと考えられています。

縄文時代(じょうもんじだい)

地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなったから

❶地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなったから

 いまから1万6000年前ごろから、地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなりはじめ、寒かった旧石器時代(きゅうせっきじだい)とは生活のしかたが大きく変わりました。このころから米づくりがはじまる紀元前(きげんぜん)9世紀ごろまでを「縄文時代(じょうもんじだい)」とよびます。縄文時代(じょうもんじだい)には、土器(どき)や石をすり磨(みが)いて作る磨製石器(ませいせっき)、弓矢(ゆみや)、漁具(ぎょぐ)など新しい道具が登場(とうじょう)します。この時代(じだい)の土器(どき)には、縄(なわ)をころがした模様(もよう)がつく土器(どき)が多いので、縄文土器(じょうもんどき)とよびますが、縄(なわ)の模様(もよう)がつかない土器(どき)も珍(めずら)しくありません。
 地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなると、木の実をつける落葉樹(らくようじゅ)や常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)の森が広がりました。また、陸地(りくち)の氷河(ひょうが)が溶(と)けて海に流れていくので、海水面が上昇(じょうしょう)し、魚や貝がとれる入り江や砂浜も広がりました。自然が大きく変化したことで、食べ物の種類(しゅるい)も増えたのです。

自然の恵みをいただいて、生きる

❷自然の恵みをいただいて、生きる

 落葉樹(らくようじゅ)や常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)の森には、ドングリやクリ、クルミなどのナッツ類、アケビやブドウ、イチゴなどのベリー類、キノコや山菜(さんさい)など、食べられる植物がたくさんあります。森でひろい集めた植物が、食事の中心となりました。しかし、植物には、ナマで食べると毒(どく)があったり、アクがあって食べられないものも多いのです。それが食べられるようになるのは、土器(どき)のおかげです。土器(どき)は、お鍋(なべ)です。熱(ねつ)を加えて煮炊(にた)きをすることで、殺菌(さっきん)やアクぬきができるほか、栄養分(えいようぶん)の吸収性(きゅうしゅうせい)が高まり、消化(しょうか)も良くなったと考えられます。
 地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなり、森がどんどん広がりました。動物や鳥たちも、食べられる実をもとめて森に集まってきます。すばしこい動物や鳥をとるために、弓矢(ゆみや)が登場(とうじょう)しました。
 暖(あたた)かくなると、海水面が上昇(じょうしょう)します。入り江や砂浜、湖や川も広がります。水温が高くなったから、水の中に入っていくこともできます。人々は漁具(ぎょぐ)や丸木船(まるきぶね)を作り、魚や貝をとって食べるようになりました。

ムラをつくる

❸ムラをつくる

 暖(あたた)かくなったことで、旧石器時代(きゅうせっきじだい)よりも、自然のなかでとれる食べ物がずいぶん豊かになりました。だから、もう動物を追いかけて移動生活(いどうせいかつ)をしなくてもよくなり、同じ場所でずっと暮(く)らす定住生活(ていじゅうせいかつ)がはじまりました。
 定住生活(ていじゅうせいかつ)をするために、木を切りたおして空き地を作り、しっかりした住居(じゅうきょ)を作ります。そこで必要なのが、堅(かた)い石を磨(みが)いてつくる磨製(ませい)の石斧(いしおの)でした。そして、人々は石斧(いしおの)を使って住居(じゅうきょ)としてたて穴建物(たてもの)を 倉庫(そうこ)としてほったて柱建物(たてもの)を建(た)てました。しかし、このような作業(さぎょう)は1つの家族だけではできないので、人々はみんなで協力しました。複数(ふくすう)の家族が、いっしょに暮(く)らすようになり、あちこちにムラができました。

祈(いの)りと祭り

❹祈(いの)りと祭り

 ムラでは、みんなが「今日も食べ物が手に入りますように」と、神さまにお祈(いの)りしました。狩(か)りや漁(りょう)でえものがとれたら、感謝(かんしゃ)の儀式(ぎしき)をしました。
 台風や雷(かみなり)、地震(じしん)、火山の噴火(ふんか)など、おそろしい災害(さいがい)がおきるたびに、自然の大きな力に気づき、「毎日の暮(く)らしがうまくいきますように」と、祈(いの)りました。「赤ちゃんが無事に生まれますように」と、神さまにお願いしました。人が亡くなると、家族が暮(く)らす家のそばに埋葬(まいそう)し、「またこのムラに生まれてくるように」と、祈(いの)りました。
 祈(いの)りや祭りに使うための品物も、いろいろ作りました。土偶(どぐう)という、粘土(ねんど)でつくった人の形の土製品(どせいひん)も、神さまにお願いをするためのものだと考えられています。

新しい時代(じだい)へ

❺新しい時代(じだい)へ

 縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(いせき)は、東日本と九州に多くあり、九州をのぞく西日本には少ないです。しかし、縄文時代(じょうもんじだい)の終わりごろ、東日本の遺跡(いせき)の数が減(へ)りました。このころ、地球(ちきゅう)が寒くなったことで、人口が多かった東日本では、食料が不足したせいか、生きていくのがとても大変になったようです。祭りや儀式(ぎしき)で使われた道具がたくさん作られるのも、そのころです。みんなが必死(ひっし)に神さまにお願いやお祈(いの)りをしていたのでしょう。
 西日本に移住(いじゅう)する人々もいて、東日本の文化が西日本に伝わっていきました。このようにして、日本列島(れっとう)全体で大きな変化が起きて、新しい時代(じだい)をむかえるのです。

弥生時代(やよいじだい)

渡来人(とらいじん)がやってきた!

❶渡来人(とらいじん)がやってきた!

 縄文時代(じょうもんじだい)の終わりごろ、地球(ちきゅう)が寒くなり、人口がどんどん減(へ)りました。寒いと、実のなる木や食べられる植物が減(へ)り、狩(か)りや漁(りょう)のえものも少なくなりました。自然のものをとって生きていた縄文人(じょうもんじん)は、「自分で食べ物を作ることができたらいいのになぁ」と思ったことでしょう。
 同じころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では米づくりがはじまっていましたが、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)も寒くなって米づくりがうまくいきません。「もっと暖(あたた)かいところに行きたいなぁ」と思ったことでしょう。そんなとき、ときどき魚をとりに朝鮮半島(ちょうせんはんとう)にきていた北部九州の縄文人(じょうもんじん)たちが、「こっちは暖(あたた)かいよ」と、言ったのかもしれません。
 海を渡(わた)ってやってきた人たちを「渡来人(とらいじん)」といいます。渡来人(とらいじん)たちは、地元の人たちのムラでいっしょに暮(く)らすようになりました。

米づくり

❷米づくり

 朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からきた渡来人(とらいじん)たちは、いっしょに暮(く)らすムラの人たちと、田んぼで米づくりをはじめました。米は長期間保存(ほぞん)ができるので、たくさん作って貯(た)めておけば安心です。日本列島(れっとう)における米づくりは、西日本を中心にどんどん広がっていきました。米づくりとともに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の土器(どき)や石器(せっき)も伝わってきました。
 しかし、火山の多い東日本や南部九州は、火山灰(かざんばい)が厚(あつ)く積(つ)もっていて、田んぼには向いていません。北海道(ほっかいどう)は寒すぎるし、沖縄(おきなわ)の島々はサンゴ礁(しょう)の島なので、田んぼには不向きです。そういう地域(ちいき)では、米づくりをしている地域(ちいき)と交流(こうりゅう)をもちながら、それぞれの地域(ちいき)の気候(きこう)や環境(かんきょう)にあったものをとり入れて工夫(くふう)し、作っていきました。

戦争(せんそう)がはじまった

❸戦争(せんそう)がはじまった

 弥生時代(やよいじだい)の中ごろに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から青銅器(せいどうき)や鉄器(てっき)、絹織物(きぬおりもの)、アクセサリーにするくだ玉やガラス玉など、新しいモノや技術(ぎじゅつ)が伝わってきました。青銅器(せいどうき)は、銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)などの武器(ぶき)でした。日本列島(れっとう)でも、ついに戦争(せんそう)がはじまったのです。
 争(あらそ)いの原因(げんいん)は、米や鉄(てつ)など、人々の生活を豊かにするものの奪(うば)いあいだと考えられています。争(あらそ)いあうなかで、地域(ちいき)の中心になる大きなムラがあらわれました。そういう地域(ちいき)のまとまりをクニとよびます。そして、特別に豪華(ごうか)な副葬品(ふくそうひん)をたくさんもった墓(はか)も出現(しゅつげん)したことで、クニの中心となる有力者(ゆうりょくしゃ)があらわれたことがわかります。

祈(いの)りと祭り、新しい文化

❹祈(いの)りと祭り、新しい文化

 米づくりがはじまると、縄文時代(じょうもんじだい)に使っていた祭りの品々は姿を消し、新しい儀式(ぎしき)や祭りが広まりました。墓(はか)も、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わった木棺(もっかん)や石棺(せっかん)に変わっていきました。米づくりとともに、大陸的な祭りの考え方が伝わり、神さまにお願いする内容も変わっていったのでしょう。
 弥生時代(やよいじだい)の祈(いの)りや祭りの道具の一つに銅鐸(どうたく)があります。銅鐸(どうたく)は、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)にあった青銅製(せいどうせい)の小さな鈴(すず)を弥生人(やよいじん)が祭りの道具として作りかえたものです。祭りの時、きれいにひびく音を鳴らして、神さまによろこんでもらおうとしたのでしょう。

国際社会(こくさいしゃかい)の仲間(なかま)入り

❺国際社会(こくさいしゃかい)の仲間(なかま)入り

 北部九州の有力者(ゆうりょくしゃ)たちは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を通して、中国の漢(かん)に使者(ししゃ)を送り、さまざまな品物をもらったりしていました。そのころの中国では、日本列島(れっとう)は「(わ)」、日本列島(れっとう)に住む人々は「倭人(わじん)」と呼ばれていました。弥生時代(やよいじだい)は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国との交流(こうりゅう)が本格的(ほんかくてき)にはじまった時代(じだい)です。北部九州を中心とする西日本では、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国の品物が出土(しゅつど)します。
 2世紀の終わりごろ、(わ)のクニグニの間で戦争がつづいたので、クニグニの共通の女王になった卑弥呼(ひみこ)は、中国の魏(ぎ)の皇帝(こうてい)に使いを送り、たくさんの品物を土産(みやげ)にもらったことが、中国の歴史書(れきししょ)『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)に書かれています。
 しかし、卑弥呼(ひみこ)という女王がどこにいたのかは、まだわかっていません。

古墳時代(こふんじだい)

古墳時代(こふんじだい)って?

❶古墳時代(こふんじだい)って?

 3世紀中ごろ、大和(やまと/いまの奈良県)に最初の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられました。その後、7世紀の初めまで、各地に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられました。この時代(じだい)を古墳時代(こふんじだい)とよびます。
 古墳(こふん)は、土を盛(も)りあげてつくった大きな墓(はか)で、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、円墳(えんぷん)、方墳(ほうふん)、帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)など、さまざまな形があります。日本には、約16万もの古墳(こふん)があるといわれています。しかし、沖縄県(おきなわけん)では、古墳(こふん)はつくられません。東北(とうほく)地方の北部や北海道(ほっかいどう)では、7世紀以降に「末期古墳(まっきこふん)」とよばれる小型の小さな円墳(えんぷん)がつくられます。墓(はか)づくりにも、地域(ちいき)によって特色があります。

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とヤマト政権(せいけん)

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とヤマト政権(せいけん)

 さまざまな形の古墳(こふん)のなかで、もっとも大きいのが前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)は世界各地にありますが、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は日本列島(れっとう)独特(どくとく)の形です。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、岩手県(いわてけん)から鹿児島県(かごしまけん)までの地域(ちいき)にありますが、もっとも大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、大和(やまと/いまの奈良県)や河内和泉(かわち・いずみ/いまの大阪府)地方に集中しており、この時代(じだい)の日本列島(れっとう)のなかでもトップクラスの有力者(ゆうりょくしゃ)たちの墓(はか)だといえます。大和(やまと/いまの奈良県)を中心としたそれらの有力者(ゆうりょくしゃ)と、それを支えたまわりの豪族(ごうぞく)たちによって、ヤマト政権(せいけん)が誕生(たんじょう)しました。そのトップにいた支配者は「大王(おおきみ)」とよばれていたことが、古墳(こふん)から出土(しゅつど)した銅鏡(どうきょう)や刀剣(とうけん)に刻(きざ)まれた銘文(めいぶん)でわかります。

古墳(こふん)のしくみ

❸古墳(こふん)のしくみ

 いま、私たちが見る古墳(こふん)は、たくさん木が生えて、小さな山のようですが、つくられたころの古墳(こふん)は、盛(も)り土の上に葺石(ふきいし)という石をぎっしり並べていたので、石の山のようにみえたはずです。長い年月の間に、古墳(こふん)の上に自然に土がたまり、木が生えていったのです。
 古墳(こふん)の頂上(ちょうじょう)や、造出し(つくりだし)と呼ばれるテラスのような出っぱりの場所に、埴輪(はにわ)が並べられます。古墳(こふん)のまわりに(ほり)がめぐらされたものもあります。古墳(こふん)の中には、人を埋葬(まいそう)します。埋葬(まいそう)のしかたは、時期によって違(ちが)います。古墳時代前期(こふんじだいぜんき)には木棺(もっかん)とたて穴式石室(たてあなしきせきしつ)、中期(ちゅうき)には石棺(せっかん)が登場(とうじょう)し、後期(こうき)には横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が広く使われます。

人々の暮(く)らし

❹人々の暮(く)らし

 古墳時代(こふんじだい)の人々の日常生活は、弥生時代(やよいじだい)とそれほど大きく変わっていません。変わった点は、5世紀ごろに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から渡来人(とらいじん)がたくさんやってきたので、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)のものや技術(ぎじゅつ)、文化がいろいろ入ってきたことです。 食生活では、蒸し器(むしき)として使う土器(どき)が伝わって、米を蒸(む)して食べることがはじまりました。また、住居のなかに、カマドが作られるようになりました。ファッションでは、青銅製品(せいどうせいひん)の表面に金をはった金銅製(こんどうせい)の冠(かんむり)や耳かざりが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わってきました。また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から馬が運ばれてきて、馬に乗るようになりました。馬は、移動(いどう)するのに便利(べんり)だし、戦場(せんじょう)でも大活躍(だいかつやく)するので、急速(きゅうそく)に広まりました。馬に乗るために、男性はズボンやクツをはくようになりました。

朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との交流

❺大陸との交流

 古墳時代(こふんじだい)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との行き来がますます活発(かっぱつ)になりました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から人々がやってくるだけでなく、日本列島(れっとう)から朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に渡(わた)って活躍(かつやく)する人々もいました。そのころの朝鮮半島(ちょうせんはんとう)には、百済(くだら)、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)という国があり、倭国(わこく)はそれぞれの国と交流(こうりゅう)がありました。古墳時代(こふんじだい)の遺跡(いせき)や古墳(こふん)からは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の国々で作られた品、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の影響(えいきょう)を受けて日本列島(れっとう)で作られた品が出土(しゅつど)しており、交流(こうりゅう)が活発(かっぱつ)だったことがわかります。
 また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の南部では、日本列島(れっとう)のものとよく似(に)た土器(どき)や埴輪(はにわ)、副葬品(ふくそうひん)のほか、日本特有(とくゆう)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)もみつかっており、文化の交流(こうりゅう)があったことがわかります。

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