消えゆく 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

❶消えゆく 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

 6世紀(せいき)にはたくさんの古墳(こふん)がつくられましたが、7世紀になると、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)はその姿(すがた)を消し、特に有力(ゆうりょく)な人は、円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)にほうむられるようになりました。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、日本列島(れっとう)にしかない独特(どくとく)の形の「王の墓(はか)」です。有力者(ゆうりょくしゃ)たちは、どうして前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)をつくらなくなったのでしょうか。
 7世紀(せいき)になると、仏教(ぶっきょう)が広まり、寺が建(た)ちはじめます。仏教(ぶっきょう)の影響(えいきょう)で、古墳(こふん)がつくられなくなったという考えもありましたが、7世紀(せいき)のはじめごろの寺(てら)は、いまの奈良県(ならけん)やそのまわりに集中(しゅうちゅう)していて、仏教(ぶっきょう)が全国各地(ぜんこくかくち)の古墳(こふん)づくりを止めてしまうほど広まっていたとは考えにくいです。
 7世紀(せいき)になると、中国に遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)をおくるようになり、天皇(てんのう)を中心とした新しい国づくりがはじまります。そういうなかで、伝統的(でんとうてき)な古墳(こふん)づくりも終わりをむかえたのかもしれません。「いつ、だれが、何をした」という記録(きろく)が残(のこ)され、「倭(わ)」から「日本(にほん)」とよばれるようになったのもこのころからです。
 明日香の地に宮が置(お)かれ、藤原京(ふじわらきょう)に都が生まれ、平城京(へいじょうきょう)へ都が移(うつ)されるまでの118年間を飛鳥時代(あすかじだい)といいます。

仏教(ぶっきょう)が伝わった

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とヤマト政権(せいけん)

 仏教(ぶっきょう)は、今から約2500年前にインド北部(ほくぶ)で生まれた宗教(しゅうきょう)です。日本列島(れっとう)には、中国、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を経(へ)て、6世紀中ごろに伝えられました。はじめは、古くから日本列島(れっとう)にいた神様を信じる人と、新しい仏教(ぶっきょう)を信じる人のあいだで対立(たいりつ)が生まれましたが、だんだんと仏教(ぶっきょう)が受け入れられていきました。
 そして596年、推古天皇(すいこてんのう/554年~628年)の時代に、豪族(ごうぞく)・蘇我馬子(そがのうまこ)によって、日本ではじめての本格的(ほんかくてき)な寺(てら)「飛鳥寺(あすかてら)」が建(た)てられました。寺を建(た)てるのは初めてのことで、そうした知識(ちしき)や技術(ぎじゅつ)がなかったため、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の百済(くだら)から、仏教(ぶっきょう)を教える僧(そう)のほか、多くの技術者(ぎじゅつしゃ)がやってきて、寺づくりをささえました。そんななか、1400年前から現在(げんざい)まで、飛鳥寺(あすかてら)のお堂(どう)に鎮座(ちんざ)する「飛鳥大仏(あすかだいぶつ)」にまつわるおもしろいエピソードがあります。
 高さ約2.8mの大仏が完成(かんせい)し、お堂(どう)におさめようとしたとき、入口が小さくて入らないという大問題(だいもんだい)が起(お)きました。もう扉(とびら)を壊(こわ)すしかない! となったそのとき、大仏をつくった鞍作止利(くらつくりのとり)のアイデアでその場を切りぬけたそうです。しかし、『日本書紀(にほんしょき)』にはその肝心(かんじん)なことが書かれていません。さて、どうやって大仏をおさめたのか、わかりますか?

大化の改新(たいかのかいしん)

❸古墳(こふん)のしくみ

 聖徳太子(しょうとくたいし)の死後(しご)、天皇(てんのう)をこえるほど勢力(せいりょく)をのばした蘇我氏(そがし)は、645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)=のちの天智天皇(てんじてんのう/626~671年)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって滅(ほろ)ぼされてしまいます。このとき、日本で初めての年号(ねんごう)「大化(たいか)」が定(さだ)められ、天皇(てんのう)を中心とした国づくりがすすめられました。これらのできごとを「大化の改新(たいかのかいしん)」といいます。
 これは、「律令制(りつりょうせい)」という唐(とう)の法律(ほうりつ)を手本にしたもので、税金(ぜいきん)など新しい社会のしくみやさまざまな法律(ほうりつ)を定(さだ)めたものでした。しかし、こうした動きに反対(はんたい)する人たちもでてきて、「一巳の変(いっしのへん)」などの事件が、飛鳥京(あすかきょう)のわずか1km半径という中で相次(あいつ)いで起(お)こりました。
 7世紀に都(みやこ)があった飛鳥(あすか)の地は、のちに都(みやこ)となる藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいじょうきょう)に比(くら)べてとても狭(せま)くて小さいですが、歴史(れきし)を動かす大きなドラマがあったのです。

大陸(たいりく)との交流(こうりゅう)

❹人々の暮(く)らし

 飛鳥時代(あすかじだい)は、大陸(たいりく)との交流(こうりゅう)がさかんな時代(じだい)でした。7世紀(せいき)初めから、中国の隋(ずい)へ遣隋使(けんずいし)がおくられました。隋(ずい)がほろび、唐(とう)という国になってからは遣唐使(けんとうし)がおくられました。そのころの中国は、まわりの国々や西アジアからたくさんの人が集まり、都(みやこ)・長安(ちょうあん)は、人口100万を超(こ)える国際都市(こくさいとし)として栄(さか)えていました。
 中国におくられた人たちは、時には数十年もの長い間、隋(ずい)や唐(とう)で暮(く)らし、最先端(さいせんたん)の政治(せいじ)や社会のしくみ、考え方、学問(がくもん)や文化などを学んで、日本へもちかえりました。
 同じころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)には、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)という3つの国がありました。倭国(わこく)といちばん仲(なか)がよかった国は、百済(くだら)でした。
 国際交流(こくさいこうりゅう)によって、人やモノだけでなく、いろんな文化や新しい考え方が交(まじ)わることで、新しい時代が生みだされたのです。

藤原京(ふじわらきょう)をつくる

❺大陸との交流

 694年、持統天皇(じとうてんのう/645~703年)は、明日香(あすか)にあった宮から約3.5㎞北にある、藤原京(ふじわらきょう)に移(うつ)りました。
 藤原京(ふじわらきょう)は、日本で初めてつくられた都(みやこ)です。中国の都(みやこ)・長安(ちょうあん)をまねてつくられたもので、将棋盤(しょうぎばん)のマス目のように道路が通る街(まち)と、天皇(てんのう)の住(す)まいや役所(やくしょ)がセットになった、計画的(けいかくてき)な都市(とし)でした。
 藤原京(ふじわらきょう)は、約5.4㎞の正方形(せいほうけい)に近い形をしています。その中心には藤原宮(ふじわらのみや)がありました。「宮(みや)」というのは、天皇(てんのう)が生活する「内裏(だいり)」、重要(じゅうよう)な儀式(ぎしき)や政治(せいじ)をおこなう「宮殿(きゅうでん)」、「役所(やくしょ)」などがあつまっているところです。「大極殿(だいごくでん)」や「朝堂院(ちょうどういん)」などの重要(じゅうよう)な建物(たてもの)の屋根(やね)には、瓦(かわら)が使われました。それまでは、屋根(やね)に瓦(かわら)を使うのは 寺だけでしたが、中国では宮殿(きゅうでん)にも瓦(かわら)を使うので、それをお手本にしたと考えられます。
 藤原宮(ふじわらのみや)に使われた瓦(かわら)は200万枚以上とも考えられています。瓦(かわら)を使うと、雨や風から建物(たてもの)を守ったり、火事が広がるのを防(ふせ)いだり、また建物(たてもの)を立派(りっぱ)にみせることができます。藤原宮(ふじわらのみや)を初めて見た人たちは、その立派(りっぱ)さにとてもおどろき、さぞ感動(かんどう)したことでしょうね。

飛鳥時代(あすかじだい)

◎飛鳥時代(あすかじだい)は、118年続きました

時代年表

飛鳥寺(あすかでら)に集まった外国の技術者(ぎじゅつしゃ)たち

古墳(こふん)をつくる:イメージ画像

 「飛鳥寺(あすかでら)」の建立(こんりゅう)には、約8年の歳月(さいげつ)がかかりました。完成後(かんせいご)、飛鳥寺(あすかでら)には朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の百済(くだら)をはじめ、外国からきた僧(そう)などが住(す)みました。その中には瓦(かわら)づくりの技術者(ぎじゅつしゃ)も含(ふく)まれており、日本で本格的(ほんかくてき)な瓦(かわら)づくりが始まりました。
 飛鳥寺(あすかてら)の軒先(のきさき)を飾(かざ)る「軒丸瓦(のきまるがわら)」は、花の図案がデザインされた特徴的(とくちょうてき)な瓦(かわら)です。こうした瓦(かわら)は、百済(くだら)のものと模様(もよう)がとてもよく似(に)ています。おそらく、瓦(かわら)づくりは朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の職人(しょくにん)の手によるものだとわかります。また、仏教(ぶっきょう)だけでなく、現代(げんだい)のカレンダーにあたる「暦(こよみ)」や「天文学(てんもんがく)」など、最新(さいしん)の学問(がくもん)も伝えられました。
 このように、仏教(ぶっきょう)を通して新しい知識(ちしき)や考え方が伝えられ、その後の日本の文化や考え方に大きな影響(えいきょう)を与(あた)えました。

「時」を知らせる、時計のはじまり

古墳(こふん)をつくる:イメージ画像

 飛鳥時代(あすかじだい)は、中国を手本にして天皇(てんのう)中心の国づくりがすすめられた時代です。これまで豪族(ごうぞく)が持っていた土地や人々を天皇(てんのう)のものとし、農民(のうみん)は国に税(ぜい)をおさめるようになりました。また、豪族(ごうぞく)は、貴族(きぞく)や役人(やくにん)になって、政治(せいじ)に参加したり、地方(ちほう)をおさめたりしました。天皇(てんのう)は、土地や人々だけではなく、時間も支配(しはい)すると考えられていました。
 奈良県(ならけん)明日香(あすか)村に水落遺跡(みずおちいせき)という遺跡(いせき)があります。発掘調査(はっくつちょうさ)の結果(けっか)、「漏刻(ろうこく)」とよばれる〝水を使って時間をはかる時計台″のあとだとわかりました。「漏刻(ろうこく)」のしくみは、水そうや壺(つぼ)などの入れ物に、決まった量(りょう)の水をそそぎ、水の高さの上下で時間の変化(へんか)をはかるものです。『日本書紀(にほんしょき)』には660年に初めて漏刻(ろうこく)をつくり、人々に時を知らせたと書かれています。「漏刻(ろうこく)」をつくったのは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、のちの天智天皇(てんじてんのう)です。
 毎朝(まいあさ)同じ時間に起(お)きて、朝ごはんを食べ、学校に行って、勉強する。夕方6時から大好きなテレビアニメがあるから、それまでに宿題をすませる。……というように、私たちは時間にそって生活をしています。このはじまりは、飛鳥時代(あすかじだい)にあるのです。

奇跡(きせき)の寺「山田寺跡(やまだでらあと)」

古墳(こふん)をつくる:イメージ画像

 「世界で一番古い木造建築(もくぞうけんちく)は?」と言えば、世界遺産(せかいいさん)にも登録(とうろく)された、奈良県(ならけん)にある「法隆寺(ほうりゅうじ)」が知られています。でも実は、飛鳥資料館(あすかしりょうかん)では、法隆寺西院伽藍(ほうりゅうじさいいんがらん)よりも古い時期の建築(けんちく)の姿を見ることができます。それが、「山田寺跡(やまだでらあと)」です。
 山田寺跡(やまだでらあと)は、飛鳥(あすか)の出入口にあたる場所(いまの奈良県桜井市山田)にあった飛鳥時代(あすかじだい)の寺の遺跡(いせき)です。641年、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)によって創建(そうけん)されました。1982年の発掘調査(はっくつちょうさ)では、東の回廊(かいろう)が11世紀に土石流(どせきりゅう)で倒(たお)れたままの姿で発見(はっけん)され、大きな話題(わだい)となりました。このとき出土(しゅつど)した建築部材(けんちくぶざい)の数は約2200点。中でも残りの良かったものは、保存処理(ほぞんしょり)をした後、元の姿に組まれ、飛鳥資料館(あすかしりょうかん)で展示(てんじ)されています。
 飛鳥地域(あすかちいき)には、仏教(ぶっきょう)が伝わってから多くの寺がつくられましたが、この時代の建物(たてもの)は一つも残っていません。山田寺跡(やまだでらあと)は、飛鳥(あすか)の地の建物(たてもの)の姿を伝える、唯一(ゆいいつ)の存在(そんざい)なのです。

ふしぎ?かわいい? 石造物(せきぞうぶつ)

いろいろな埴輪(はにわ):イメージ画像

 『日本書紀(にほんしょき)』は、斉明天皇(さいめいてんのう/594~661年)が須弥山(しゅみせん)の像(ぞう)を飛鳥(あすか)につくり、そこで宴会(えんかい)をひらいたと伝えています。須弥山(しゅみせん)とは、仏教(ぶっきょう)で世界の中心にそびえる山のことをさし、このときに置(お)かれた須弥山(しゅみせん)と考えられているのが、須弥山石(しゅみせんいし)です。この石は、明治時代(めいじじだい)に石神遺跡(いしがみいせき)から出土(しゅつど)し、現在(げんざい)は飛鳥資料館(あすかしりょうかん)で展示(てんじ)されています。
 また、同じ田んぼから「石人像(せきじんぞう)」とよばれるユーモラスな男女の像(ぞう)も出土(しゅつど)しました。須弥山石(しゅみせんいし)も石人像(せきじんぞう)も、水を吹(ふ)き出す管(くだ)が彫(ほ)られています。硬(かた)い石から吹(ふ)き出す水に、飛鳥時代(あすかじだい)の人々はさぞ驚(おどろ)いたことでしょう。
 酒船石遺跡(さかふねいしいせき)からは、水を流したり、貯(た)めたりできる「石造物(せきぞうぶつ)」がみつかっており、飛鳥時代(あすかじだい)の儀式(ぎしき)に関(かか)わるものだと考えられています。なかには、亀石(かめいし)や猿石(さるいし)とよばれる、生き物のような形を表わした石造物(せきぞうぶつ)もみられます。猿石(さるいし)は表(おもて)と裏(うら)の両面(りょうめん)に顔が彫(ほ)られたものもあり、土地の境界(きょうかい)に置(お)かれたと考えられています。
 こうした石造物(せきぞうぶつ)は、飛鳥(あすか)の川沿(ぞ)いで採(と)れる飛鳥石(あすかいし)でつくられており、ほかではあまりみつかっていません。

国を守るために備(そな)えた、山城(やまじろ)

 この時代、海の向こうの国から、日本列島(れっとう)は倭国(わこく)とよばれ、さまざまな外国と交流(こうりゅう)がありました。
 このころ、中国は唐(とう)の時代、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)には新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)という3つの国がありました。倭国(わこく)といちばん仲(なか)がよかった国は、百済(くだら)でした。しかし、660年、唐(とう)と新羅(しらぎ)が百済(くだら)を攻(せ)めて、百済(くだら)は滅(ほろ)びました。倭国(わこく)は百済(くだら)を復活(ふっかつ)させようと、663年、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に兵(へい)を送りましたが、唐(とう)と新羅(しらぎ)の大軍にはとてもかなわず、負けてしまいました(「白村江の戦い(はくすえのたたかい)」。
 そして、もしかすると、唐(とう)が日本列島(れっとう)に攻(せ)めてくるかもしれないと思い、さまざまに国を守る工夫(くふう)をしました。たとえば、九州北部から瀬戸内海(せとないかい)沿(ぞ)いのあちこち山の上を土塁(土)や石垣(いしがき)で囲(かこ)んだ山城(やまじろ)がつくられました。それは、とても大変な工事(こうじ)でした。唐(とう)が攻めてくることを恐れて、必死に作ったのでしょうね。もし本当に唐(とう)が攻めてきていたら、日本列島(れっとう)は唐(とう)に支配(しはい)され、「日本」という国は生まれなかったことでしょう。ラッキーでしたね。

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