衣服とアクセサリー 衣服とアクセサリー

いまの家では、スイッチ1つで灯(あか)りがついて、水道の蛇口(じゃぐち)から水がでるのはあたりまえ。
だけど、電気・ガス・水道がない時代や、もっと昔には、家がなかった時代もありました。
雨や雪の日には、どうやって くらしていたのでしょう。どんなにたいへんだったでしょう。
生活の土台となる「住まい」は大切なもの。
大昔の人たちがどんな風にくらしていたのかを調べてみましょう。

旧石器時代
(きゅうせっきじだい)

どんな「家」で
くらしていたの?

旧石器時代(きゅうせっきじだい)の人びとは、獲物(えもの)を追って移動(いどう)生活をしていました。洞窟(どうくつ)や岩陰(いわかげ)を住まいとして利用(りよう)したほか、ひらけた土地にテントのような簡単(かんたん)な住居(じゅうきょ)をつくりました。テントは、シカの皮を使ったりしたのではないかと考えられています。しかし、短(みじか)い間 くらすだけの簡単(かんたん)なつくりだったので、地面にその跡(あと)があまり残らなくて、みつけるのはむずかしいです。神奈川県(かながわけん)田名向原遺跡(たなむかいはらいせき)は、いまのところ、日本最古(さいこ)とされる2万年前の住居(じゅうきょ)がみつかりました。
2万年前の住居を復元
田名向原遺跡/神奈川県
提供:旧石器時代学習館

どんなふうに
くらしていたの?

建物の跡(あと)は残っていなくても、石器(せっき)や石のカケラがまとまって出土(しゅつど)する場所を「ブロック」とよびます。こうしたブロックをはじめ、料理や食事をした跡(あと)の「礫群(れきぐん)」がみつかると、ひとつの家族が生活した場所だと考えられます。最近になって、いくつものブロックがドーナツ形に集まった「環状(かんじょう)ブロック」が、関東(かんとう)地方を中心に100ヵ所以上みつかっています。複数(ふくすう)の家族がしばらくの間 一緒(いっしょ)にくらした跡(あと)のようです。オオツノジカなどの大きな動物を捕(つか)まえ、その肉を分けあって食べるには大家族の方がよかったのでしょう。
(「行ってみよう」栃木県(とちぎけん)上林遺跡(かんばやしいせき)、群馬県(ぐんまけん)岩宿遺跡(いわじゅくいせき)もみてね)
環状ブロック復元図
上林遺跡/栃木県
提供:佐野市郷土博物館

縄文時代
(じょうもんじだい)

家?それとも倉庫?
建物(たてもの)の登場(とうじょう)

縄文時代(じょうもんじだい)には、地球が暖(あたた)かくなり、植物や魚、貝などの食べ物が豊かになったので、同じ場所でずっとくらす定住生活がはじまりました。この時代には堅(かた)い石を磨(みが)いてつくる磨製(ませい)の石斧(いしおの)が登場(とうじょう)し、木を切りたおすことができるようになりました。縄文人(じょうもんじん)は、森の木を切って空き地をつくり、切りたおした木でしっかりした建物をつくりました。
縄文時代(じょうもんじだい)から古墳時代(こふんじだい)に使われた建物(たてもの)は、2種類あります。1つは半地下式(はんちかしき)の「たて穴建物」、もう1つは地上式の「ほったて柱建物」です。
かやぶき屋根のたて穴建物
多摩ニュータウン57遺跡/東京都
提供:東京都埋蔵文化財センター
住居内部の復元
多摩ニュータウン57遺跡/東京都
提供:東京都埋蔵文化財センター

たて穴建物(たてもの)

地面を円形や四角形に掘(ほ)って、地面(じめん)より50cmほど低いところに床(ゆか)をつくる建物(たてもの)です。世界各地にもありますが、日本では縄文時代(じょうもんじだい)にあらわれ、弥生時代(やよいじだい)や古墳時代(こふんじだい)にも使われました。
みなさんの教科書(きょうかしょ)には、「たて穴住居(じゅうきょ)」と書かれていると思います。たしかに、たて穴建物の多くは住居(じゅうきょ)として使われましたが、石器(せっき)づくりや玉つくりなどの作業場(さぎょうば)であったものもありました。そのため、このWEBサイトでは「たて穴住居」ではなく、「たて穴建物」としています。
たて穴建物は、地下の床に何本かの柱を立て、そこに屋根をかぶせます。壁を作らないので、地上では屋根(やね)だけが見える形になります。屋根の材料にはカヤなどの草が使われましたが、なかには屋根に土をかぶせたものもありました。大きさは、畳(たたみ)6枚~12枚くらいの広さで、2~5人くらいの家族がくらしていたようです。また、料理をしたり、灯(あか)りや暖房(だんぼう)のために火を焚(た)いたりした炉(ろ)があります。
高床式建物
妻木晩田遺跡/鳥取県

ほったて柱建物

地上に柱を立てて、その柱で屋根をささえる建物のことです。ほったて柱建物の柱は、地面に掘(ほ)った穴に埋(う)めます。ほったて柱建物は、大きく分けて、次の2種類があります。
①平地式建物(へいちしきたてもの)
  ~~~地面をそのまま床(ゆか)として使う

②高床式建物(たかゆかしきたてもの)
  ~~~地面より高い所に板をはって床(ゆか)をつくる

遺跡(いせき)を発掘(はっくつ)してみつかるのは柱を埋(う)めた穴だけなので、①と②の区別はむずかしいです。だから、両方をあわせて「ほったて柱建物」とよんでいます。
①平地式建物(へいちしきたてもの)は、数は多くなく、倉庫(そうこ)や集会場(しゅうかいじょう)、作業場(さぎょうば)などに使われていたと考えられます。
②高床式建物(たかゆかしきたてもの)は、湿気(しっけ)や、虫や動物(どうぶつ)に荒(あ)らされることから防(ふせ)げるので、倉庫(そうこ)として使われたと考えられます。もちろん、なかには儀式(ぎしき)をおこなう特別な建物だったり、住まいとして使われたりしたものもあったかもしれません。平安時代(へいあんじだい)から現代(げんだい)まで、日本の住居(じゅうきょ)の多くは高床式(たかゆかしき)です。
復元された超大型建物
不動堂遺跡/富山県
提供:朝日町教育委員会
大人がすっぽり入る大きな穴
不動堂遺跡/富山県
提供:朝日町教育委員会

超大型建物(ちょうおおがた たてもの)

北陸(ほくりく)地方から東北(とうほく)地方では、長さ20mを超(こ)える超大型建物(ちょうおおがたたてもの)がつくられました。たて穴式と平地式(へいちしき)の2種類あり、大きなものはテニスコートくらいの面積(めんせき)があります。こうした超大型建物(ちょうおおがたたてもの)は、雪の多い地方に多いことから、冬の間、雪が積(つ)もって外に出られないときに、みんなでここに集まって、ドングリのカラをむいたり、石器(せっき)をつくったりした共同(きょうどう)の作業場ではないかと考えられています。それ以外にも、集会場(しゅうかいじょう)など、いろいろな使い方をしたかもしれませんね。(「行ってみよう」青森県三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)、富山県不動堂遺跡(ふどうどういせき)をみてね)

ムラの誕生(たんじょう)

縄文時代(じょうもんじだい)になると、人びとは台地(だいち)や丘(おか)の上に住むようになり、いくつかの家族が集まって、ムラができました。
1つのムラは2~3軒(けん)、または4~5軒(けん)の家族でくらしていたものが多く、10軒(けん)もあれば大きなムラです。ムラには、住居(じゅうきょ)のほかに、倉庫(そうこ)、ドングリなどを貯(た)めておく貯蔵穴(ちょぞうけつ)、広場、貝塚(かいづか)、墓地(ぼち)などがありました。関東(かんとう)地方では、中央の広場のまわりにドーナツ形にまるく住居や倉庫(そうこ)、貯蔵穴(ちょぞうけつ)などがならぶ環状集落(かんじょうしゅうらく)がみられるようになります。(「行ってみよう」東京都(とうきょうと)神奈川県(かながわけん)埼玉県(さいたまけん)静岡県(しずおかけん)もみてね)
大きな村のようす(遺跡の全体図)
根古谷台遺跡/栃木県
提供:宇都宮市教育委員会

弥生時代
(やよいじだい)

特別な建物(たてもの)の登場(とうじょう)

弥生時代(やよいじだい)の建物も、基本的(きほんてき)には たて穴建物とほったて柱建物です。弥生土器(やよいどき)には、いろいろな建物の絵を描(えが)いたものがあり、どんな建物だったかを知る手がかりになっています。
この時代のほったて柱建物には、いまの神社の本殿(ほんでん)のように、建物の屋根をささえる棟持柱(むなもちばしら)があらわれた、独立(どくりつ)棟持柱(むなもちばしら)もあり、祭りや儀式(ぎしき)のための特別な建物と考えられています。また、庇(ひさし)のついた建物は、首長(しゅちょう)の住まい、あるいは儀式(ぎしき)をおこなう特別な建物とみられます。
>佐賀県(さがけん)の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)や大阪府(おおさかふ)の池上曽根遺跡(いけがみそねいせき)などでは、超大型(おおがた)のほったて柱建物があり、祭りや儀式(ぎしき)などで使われた建物と考えられています。吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)には、「物見やぐら」とよばれる高い建物がありました。鳥取県の稲吉角田遺跡(いなよしすみだいせき)で出土(しゅつど)した弥生土器(やよいどき)には高い建物の絵が描(えが)かれていて、弥生時代(やよいじだい)に高い建物があったことがわかります。
望楼
吉野ヶ里遺跡/佐賀県
提供:佐賀県教育委員会
高い建物の絵が描かれていた弥生土器
稲吉角田遺跡/鳥取県
提供:鳥取県埋蔵文化財センター

新しいムラの形=環濠集落(かんごうしゅうらく)

弥生時代(やよいじだい)になると、米づくりをおこなう地域(ちいき)では、田んぼに適(てき)した平野(へいや)にムラがつくられます。なかには、ムラのまわりに濠(ほり)をめぐらせた環濠集落(かんごうしゅうらく)もあらわれました。環濠集落(かんごうしゅうらく)は、米づくりとともに朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わった新しいムラの形です。なぜ「濠(ほり)」が必要(ひつよう)だったかというと、洪水対策(こうずいたいさく)をはじめ、危険(きけん)な動物の侵入(しんにゅう)を防(ふせ)いだり、敵(てき)の攻撃(こうげき)からムラを守ったり、またムラの団結力(だんけつりょく)を高めるためだったりと、さまざまな役目が考えられます。
ムラの中に井戸(いど)を掘(ほ)るようになり、川まで水を汲みに行かなくてもよくなりました。ただし、井戸が必要(ひつよう)かどうかはムラの地形(ちけい)によるので、井戸のないムラもありました。ムラの中心に墓地(ぼち)をつくった縄文人(じょうもんじん)と違(ちが)い、墓地(ぼち)はムラとは別な場所につくられるようになりました。
大きなムラでは特別に大きな建物があり、有力者(ゆうりょくしゃ)の館(やかた)か、祭りや儀式(ぎしき)の建物だと考えられています。
環濠集落
大塚遺跡/神奈川県
提供:横浜市教育委員会

古墳時代
(こふんじだい)

新しい建物と渡来人(とらいじん)の住居(じゅうきょ)

古墳時代(こふんじだい)の建物は、基本的(きほんてき)には弥生時代(やよいじだい)と同じですが、たて穴建物の平面の形は四角形になりました。家形埴輪(いえがたはにわ)をみると、どのような建物だったかがわかります。日本の木造(もくぞう)の古い家の形は、だいたいこの時代にそろったことがわかります。
古墳時代(こふんじだい)になると、ほったて柱建物ばかりが100以上もあるムラがでてきます。ほったて柱建物を住居(じゅうきょ)にしていたようです。ほったて柱建物の中には、たくさんの柱で床をささえる総柱建物(そうばしらたてもの)が増えてきます。これは、重いものでも入れられる倉庫(そうこ)だと考えられています。
4世紀の終わりごろ、土の壁(かべ)で屋根をささえる大壁(おおかべ)の建物が、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わってきました。また、「オンドル」という朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の伝統的(でんとうてき)な暖房設備(だんぼうせつび)のある たて穴建物もあり、渡来人(とらいじん)の住居(じゅうきょ)であったと考えられています。
復元された総柱建物
法円坂遺跡/大阪府
首長居館の復元模型
三ッ寺Ⅰ遺跡/群馬県
所蔵:かみつけの里博物館

首長居館(しゅちょうきょかん)

古墳時代(こふんじだい)になると、弥生時代(やよいじだい)のように、ムラ全体を濠(ほり)で囲(かこ)むことはなくなります。それは地域(ちいき)全体をおさめる有力な首長(しゅちょう)があらわれ、ムラを守るようになったからです。そして、人びとがくらすムラとは違(ちが)う場所に、濠(ほり)や柵(さく)で四角く囲(かこ)まれた「首長居館(しゅちょうきょかん)」がつくられます。
居館(きょかん)の中には、首長(しゅちょう)の住居(じゅうきょ)、倉庫(そうこ)、祭りの場、モノを作る作業場などがあります。発見例(れい)はまだ少ないですが、古墳(こふん)だけでなく、生活の場から、首長(しゅちょう)が生きていたときの姿(すがた)がみえてくる貴重(きちょう)な遺跡(いせき)です。(「行ってみよう」群馬県(ぐんまけん)三ツ寺Ⅰ遺跡をみてね)

火山灰(かざんばい)に
埋(う)もれたムラのようす

古墳時代(こふんじだい)のムラの様子(ようす)がよくわかるのが、群馬県(ぐんまけん)の黒井峯遺跡(くろいみねいせき)です。6世紀に浅間山(あさまやま)が噴火(ふんか)して、火山灰(かざんばい)で埋(う)もれたムラが発掘(はっくつ)されました。そこではムラ全体がいけ垣(がき)で囲(かこ)まており、その内側(うちがわ)に、たて穴建物、平地式建物(へいちしきたてもの)、高床式建物(たかゆかしきたてもの)、作業場、祭り場、庭(にわ)や畑などがみつかりました。1軒(けん)ごとの家のまとまりや、建物をつなぐ道があったことがわかりました。(「行ってみよう」群馬県(ぐんまけん)をみてね)
古墳時代のムラの再現図
黒井峯遺跡/群馬県
提供:渋川市教育委員会
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