衣服とアクセサリー 衣服とアクセサリー

みなさんは、家族や友達、大切な人が死んでしまったという経験(けいけん)がありますか?
それは、とても悲しいことです。大昔の人たちも同じように、死んだ人にもう会えないことを悲しみながら、
死者の世界へ 安らかに旅立たてるよう、祈りました。
大昔の人たちが死者をどのように見送ったのか、「墓(はか)」について調べてみましょう。

旧石器時代
(きゅうせっきじだい)

土坑(どこう)で
みつかった墓(はか)?

「死(し)ぬ」ということがわかる動物は、人間だけだといわれています。人間は、死んだ人の遺体(いたい)を葬(ほうむ)ります。それが「墓(はか)」です。700万年前にサルから進化(しんか)した人類は、30万年前ごろから、墓(はか)をつくるようになります。
日本列島(にほんれっとう)では、4万年前ごろから人類(じんるい)がくらしはじめ、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の遺跡(いせき)は約1万2000ヵ所みつかっています。しかし、墓(はか)だとわかる遺跡(いせき)はとても少ないです。
大阪府(おおさかふ)のはざみ山遺跡(はざみやまいせき)では、2万年前ごろの、長さ2mをこえる だ円形の土坑(どこう)とその底に石が2個みつかっていて、墓(はか)ではないかと考えられています。また、北海道(ほっかいどう)の湯の里4遺跡(ゆのさと4いせき)では、1.1×0.9mのだ円形の土坑(どこう)がみつかっています。土坑(どこう)の底(そこ)には赤い土がしかれ、その脇(わき)に垂飾(たれかざ)りが2つと玉が3つ、さらに石核(せっかく)や石器(せっき)をつくる材料にする石などが置(お)かれていて、副葬品(ふくそうひん)をおさめた墓(はか)であったと考えられています。しかし、人骨(じんこつ)がみつかっていないので、確実(かくじつ)に墓(はか)であったとはいえません。
だ円形の土坑墓(どこうぼ
はざみ山遺跡(はざみやまいせき)/大阪府
提供:大阪府文化財センター
垂飾(たれさが)りと玉 ※コハクのみレプリカ
【重要文化財】
湯の里4遺跡(ゆのさと4いせき)/北海道
提供:知内町郷土資料館

琉球列島(りゅうきゅうれっとう)の墓(はか)

日本列島(にほんれっとう)の土は、骨(ほね)を溶(と)かしやすく、人骨(じんこつ)は残りにくいです。しかし、石灰岩(せっかいがん)やサンゴ礁(しょう)の島である南西諸島(なんせいしょとう)は、骨(ほね)が残ります。したがって、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の人骨(じんこつ)がみつかるのは、沖縄県(おきなわけん)をはじめとする琉球列島(りゅうきゅうれっとう)に限られ、ほかの地域(ちいき)からはほとんどみつかっていません。
沖縄県(おきなわけん)の石垣島(いしがきじま)にある白保竿根田原遺跡(しらほさおねたばるいせき)では、2万7000年〜2万年前の旧石器時代(きゅうせっきじだい)の人骨(じんこつ)が20人分ほどみつかりました。それらの人骨(じんこつ)は、5ヵ所に分かれて発見(はっけん)されました。なかには、あお向けで膝(ひざ)をまげた屈葬(くっそう)という姿勢(しせい)で葬(ほうむ)られた人もいました。それらは、埋(う)められたのではなく、洞穴(どうけつ)全体を墓地(ぼち)とし、何人かをまとめて葬(ほうむ)る墓(はか)としたようです。また、そうした葬(ほうむ)り方は、遺体(いたい)を土に埋(う)めないで、地上(ちじょう)に寝(ね)かせたままにしておく風葬(ふうそう)であったと考えられます。誰(だれ)かが死(し)ぬと、前に葬(ほうむ)った人骨(じんこつ)を一定(いってい)の場所にまとめて、新しい死者(ししゃ)を葬(ほうむ)る場所を確保(かくほ)していたようです。そのようにして、白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるいせき)は、長い間、墓地(ぼち)として利用された遺跡(いせき)です。
2万7000年前の人骨(じんこつ)
白保竿根田原遺跡(しらほざおねたばるいせき)
提供:沖縄県立埋蔵文化財センター

縄文時代
(じょうもんじだい)

死んだ人を葬(ほうむ)る

大昔から、人が亡(な)くなると、手厚(あつ)く葬(ほうむ)りました。しかし、大人(おとな)の墓(はか)と子どもの墓(はか)は、埋葬(まいそう)のしかたが違(ちが)っていたようです。それを青森県(あおもりけん)の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)の例(れい)でみてみましょう。
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、大人(おとな)の墓(はか)は地面(じめん)に掘(ほ)られた だ円形の穴に埋葬(まいそう)されていました。それを土坑墓(どこうぼ)とよびます。発見(はっけん)された約500基(き)の土坑墓(どこうぼ)は、ムラをめぐる道路(どうろ)の跡(あと)の両側に向かいあって、列(れつ)をつくり、並(なら)んでいました。ドーナツ状のムラが多い関東(かんとう)地方では、中央の広場に土坑墓(どこうぼ)を作りました。道の両側(りょうがわ)だったり、中央の広場であったり、縄文人(じょうもんじん)は亡(な)くなった人をムラの中の、身近(みぢ)かなところに葬(ほうむ)ったようです。
500基もの大人の土坑墓が発見された
三内丸山遺跡/青森県
提供:青森県教育委員会
子どもは土器に入れて埋葬(まいそう)
三内丸山遺跡/青森県
提供:青森県教育委員会

子どもの墓(はか)

子どもが亡(な)くなると、 ふだん使っている土器(どき)の中に遺体(いたい)を入れ、埋葬(まいそう)したようで、三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、これまでに800以上の子どもの墓(はか)がみつかっています。子どもの墓(はか)は住居(じゅうきょ)の入り口や、外の場合でも住居(じゅうきょ)のすぐそばにつくられました。土器(どき)の大きさから考えると、亡(な)くなったのは1才くらいの子どもだったと考えられます。
縄文人は大人であれ、子どもであれ、亡くなった人を身近に手厚く葬(ほうむ)っていたようです。
手厚(あつ)く埋葬(まいそう)されたイヌ
藤原観音堂貝塚/千葉県
提供:飛ノ台史跡公園博物館

イヌの埋葬(まいそう)

明治時代(めいじじだい)以降(いこう)の発掘調査(はっくつちょうさ)で、貝塚(かいづか)から、ほかの動物の骨(ほね)とともに、イヌの骨(ほね)も出土(しゅつど)しました。だから、考古学(こうこがく)の世界では、縄文時代(じょうもんじだい)からイヌがいたことは知られていました。さらに、大正時代(たいしょうじだい)の終わりから昭和時代(しょうわじだい)のはじめには、イヌが土坑(どこう)にていねいに埋葬(まいそう)されていることがわかりました。縄文人(じょうもんじん)にとって、イヌはどのような存在だったのでしょうか。
イヌは、縄文人(じょうもんじん)が狩(か)りに行くときについて行き、獲物(えもの)の居場所(いばしょ)を教えたり、獲物(えもの)を追いまわしたり、ときには獲物(えもの)と格闘(かくとう)したり、また縄文人(じょうもんじん)が弓矢(ゆみや)でしとめた獲物(えもの)をとりに行ったり、狩りの手伝いをしていたと思われます。縄文人(じょうもんじん)にとって、イヌは狩りに欠(か)かせないパートナーだったのです。

骨(ほね)は語る

火山の多い日本列島(れっとう)では、酸性(さんせい)の強い火山灰(かざんばい)が広く積(つ)もっているので、土に埋(う)もれた骨(ほね)は溶(と)けてしまいます。骨(ほね)が残っているのは、多くの場合、アルカリ性の強い石灰岩(せっかいがん)の洞窟(どうくつ)や貝塚(かいづか)に限(かぎ)られます。したがって、縄文時代(じょうもんじだい)の墓(はか)は穴しか残っておらず、アクセサリーの玉や副葬(ふくそう)されたと思われる矢じりなどが、ときどき発見(はっけん)されるくらいです。
骨(ほね)を分析(ぶんせき)すると、その人が亡(な)くなった年代(ねんだい)や、生きているときに、主として食(た)べていた物、また歯の表面についた数本の溝(みぞ)によって、どんな栄養状態(えいようじょうたい)だったか、どんな病気(びょうき)にかかったか、などがわかります。
屈葬(くっそう)された墓(はか)
北村遺跡(きたむらいせき)/長野県
提供:長野県立歴史館

弥生時代
(やよいじだい)

墓(はか)の形

弥生時代(やよいじだい)は、米づくりをはじめたことで生活のしかたが変(か)わるとともに、墓(はか)の様子(ようす)も変(か)わりました。縄文時代(じょうもんじだい)と同じような墓(はか)とは別に、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わった墓(はか)も たくさんあります。
また、弥生時代(やよいじだい)には、墓(はか)であることがわかる特別な目印(めじるし)をつくったものと、目印がなく目立たないものがあります。
はっきりした目印(めじるし)がある墓(はか)の一つは、朝鮮半島(ちょうせはんとう)から伝わった支石墓(しせきぼ)です。これは、遺体(いたい)を埋葬(まいそう)した後(あと)、その上に大きな石を置(お)いた墓(はか)で、「ドルメン」ともいわれます。弥生時代前期(やよいじだいぜんき)に長崎県(ながさきけん)や佐賀県(さがけん)、福岡県(ふくおかけん)でつくられましたが、ほかの地域(ちいき)には広まりませんでした。 もう一つは、溝(みぞ)を掘(ほ)ったり、土を盛(も)ったりして、埋葬(まいそう)している場所を区画(くかく)した墓(はか)です。四角形や円形に溝(みぞ)をほって囲(かこ)んだ周溝墓(しゅうこうぼ)という墓(はか)と、土をm盛(も)ったりまわりを削(けず)って段(だん)をつけたりした墳丘墓(ふんきゅうぼ)とよばれる墓(はか)です。これらの墓(はか)は、弥生時代(やよいじだい)をとおして各地に広まりました。
後期(こうき)には、長さが40mをこえる大きな墓(はか)もつくられるようになりました。それぞれの地域(ちいき)の王たちの墓(はか)です。山陰(さんいん)地方では、四角形の四つの隅(すみ)に角が生(は)えたような四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)という独特(どくとく)の墓(はか)もつくられました。
こうした目立つ墓(はか)に対し、目印(めじるし)がない墓(はか)とは、地面に穴を掘(ほ)って埋(う)めただけの土壙墓(どこうぼ)です。つくるのが 簡単(かんたん)なので、それほど有力(ゆうりょく)ではない人たちの墓(はか)だと考えられます。
支石墓
里田原遺跡/長崎県
提供:平戸市教育委員会
墳丘墓
吉野ヶ里遺跡/佐賀県
提供:佐賀県教育委員会
四隅突出型墳丘墓
妻木晩田遺跡/鳥取県
土坑墓(どこうぼ)
本目遺跡/熊本県
提供:あさぎり町教育委員会

棺(ひつぎ)の種類

変(か)わったのは、墓(はか)の形だけではありません。遺体(いたい)をおさめる棺(ひつぎ)にも、変化(へんか)があらわれました。地面に墓穴(はかあな)を掘(ほ)って、遺体(いたい)を直接埋(う)める土壙墓(どこうぼ)や、普段の生活で使う土器(どき)を棺(ひつぎ)にした土器棺(どきかん)のほか、弥生時代(やよいじだい)には、新たに遺体(いたい)を納(おさ)める専用(せんよう)の棺(ひつぎ)が登場(とうじょう)します。それは、次のようなものです。
弥生時代の箱式石棺
土井ヶ浜遺跡/山口県
方形周溝墓から出土した組合せ式木棺
雁屋遺跡/大阪府
提供:四条畷市教育委員会

石棺(せっかん)と木棺(もっかん)

朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から新たに伝わってきた棺(ひつぎ)には、箱式石棺(せっかん)と箱式木棺(はこしきもっかん/「箱形木棺(はこがたもっかん」ともいう)があります。
箱式石棺(せっかん)は、板(いた)のようなうすい石を箱形に組んで遺体(いたい)をおさめる棺(ひつぎ)です。弥生時代(やよいじだい)の前期(ぜんき)には、山口県(やまぐちけん)や島根県(しまねけん)の海岸(かいがん)に近いところで発見(はっけん)されています。後期(こうき)には九州(きゅうしゅう)や瀬戸内(せとうち)地方にも広まり、つづく古墳時代(こふんじだい)にも広く使われた棺(ひつぎ)です。
また、石ではなく、木の板(いた)を箱形に組んだのが箱式木棺(もっかん)です。木の棺(ひつぎ)は土の中で腐(くさ)ってしまうため、棺(ひつぎ)の板(いた)の跡(あと)が残っていないと、棺(ひつぎ)のない土壙墓(どこうぼ)と区別できないこともあります。
後期(こうき)には、瀬戸内(せとうち)や日本海側(にほんかいがわ)側の兵庫県(ひょうごけん)北部と京都府(きょうとふ)北部に新しい形の木棺(もっかん)が登場(とうじょう)します。瀬戸内(せとうち)周辺(しゅうへん)に登場(とうじょう)する木棺(もっかん)は、棺(ひつぎ)の底(そこ)が丸くカーブした割竹形木棺(わりたけがたもっかん)です。木棺(もっかん)は残っていませんが、棺(ひつぎ)を置(お)いた墓穴(はかあな)の床(ゆか)が丸く くぼんでいることから、竹をたてに割(わ)ったような形の木棺(もっかん)だったと考えられています。
このように、木棺(もっかん)は流行(りゅうこう)する地域(ちいき)と時期(じき)によって違(ちが)いがありますが、いずれも古墳時代(こふんじだい)にも用(もち)いられています。
甕棺に屈葬された大人の人骨
吉野ヶ里遺跡/佐賀県
提供:吉野ヶ里遺跡
北部九州では大人用の大きな甕棺も出土
吉野ヶ里遺跡/佐賀県
提供:吉野ヶ里遺跡

甕棺(かめかん)

甕棺(かめかん)とは、おさない子どもを葬(ほうむ)るもので、毎日使っている土器(どき)を棺(ひつぎ)にして、縄文時代(じょうもんじだい)にも古墳時代(こふんじだい)にもあります。しかし、弥生時代(やよいじだい)の北部九州(きゅうしゅう)では、高さが1mをこえる大きな甕棺(かめかん)が使われました。大人(おとな)を埋葬(まいそう)する棺(ひつぎ)にするために、特別につくられた土器(どき)です。
大人(おとな)を埋葬(まいそう)する大きな甕棺(かめかん)は、九州(きゅうしゅう)にしかありません。

副葬品(ふくそうひん)

遺体(いたい)と一緒(いっしょ)に棺(ひつぎ)の中におさめたり、棺(ひつぎ)のまわりに供(そな)えたりしたものを副葬品(ふくそうひん)といいます。弥生時代(やよいじだい)の副葬品(ふくそうひん)には、青銅製(せいどうせい)の鏡(かがみ)、剣(けん)などの武器(ぶき)、鉄製(てつせい)の武器(ぶき)、斧(おの)などの工具(こうぐ)、ガラス製(せい)の玉などが、新しく加(くわ)わります。
銅剣、銅鏡、数々の青銅器(せいどうき)
吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)/福岡県
提供:福岡市
管玉
森遺跡7号土壙墓 出土/島根県
提供:島根県立古代出雲歴史博物館

有力者(ゆうりょくしゃ)のしるし

弥生時代前期(やよいじだいぜんき)の終わりから中期(ちゅうき)の初めごろ、福岡県(ふくおかけん)の吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)3号木棺墓(3ごうもっかんぼ)から、銅鏡(どうきょう)と銅剣(どうけん)などの武器(ぶき)、まが玉くだ玉が出土(しゅつど)しています。いまのところ、この3号墓(3ごうぼ)が青銅器(せいどうき)が副葬(ふくそう)されたもっとも古い墓(はか)です。
これらの青銅器(せいどうき)は、もともと朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国から手に入れた貴重(きちょう)な品だったので、それを墓(はか)にいれるのは、有力者(ゆうりゅくしゃ)のしるしになりました。
おもしろいのは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国から手に入れた貴重品(きちょうひん)とともに、縄文時代(じょうもんじだい)から大切にされていたヒスイのまが玉が入っていることです。新しい外国文化と、昔からつづく自分たちの文化の両方(りょうほう)を大切にしていたことがわかります。
まが玉などの副葬品(ふくそうひん)は各地の墓(はか)で出土(しゅつど)しますが、銅鏡(どうきょう)や青銅製(せいどうせい)の剣(けん)・矛(ほこ)などの武器(ぶき)の副葬(ふくそう)は、九州(きゅうしゅう)の甕棺(かめかん)をつかう地域(ちいき)に限(かぎ)られていました。弥生時代(やよいじだい)が終わるころ、鏡(かがみ)や武器(ぶき)を副葬(ふくそう)する習慣(しゅうかん)が、九州(きゅうしゅう)の各地から瀬戸内(せとうち)や山陰(さんいん)地方にも広がりました。

墓(はか)におかれた土器(どき)

弥生時代(やよいじだい)の墓(はか)を発掘(はっくつ)すると、棺(ひつぎ)のそばや棺(ひつぎ)をおおった土の中から土器(どき)が出土(しゅつど)することがあります。土器(どき)は、煮炊(にた)きの道具であるほか、食べ物や飲み物の器(うつわ)です。それが、なぜ墓(はか)からみつかるのでしょうか?
墓(はか)で出土(しゅつど)する土器(どき)には、模様(もよう)がたくさんついていたり、赤く色が塗(ぬ)ってあるなど、ふつうの土器(どき)よりきれいに飾(かざ)られた土器(どき)が含(ふく)まれています。何か特別な意味(いみ)があったようです。
岡山県(おかやまけん)の後期(こうき)の大きな墓(はか)で出土(しゅつど)する土器(どき)の中には、まじないのような不思議(ふしぎ)な文様(もんよう)をつけた「特殊器台(とくしゅきだい)」とよばれる土器(どき)があります。特殊器台(どくしゅきだい)の文様(もんよう)や形は、次の古墳時代(こふんじだい)に受けつがれ、円筒埴輪(えんとうはにわ)とよばれるようになります。
弥生時代(やよいじだい)の王の墓(はか)での埋葬(まいそう)の儀式(ぎしき)に、変化(へんか)がおきはじめたといえます。
供献された土器
西谷墳墓群3号墓 出土/島根県
提供:出雲弥生の森博物館
吉備の特殊器台【国指定重要文化財】
宮山墳丘墓/岡山県
提供:古代吉備文化財センター

古墳時代
(こふんじだい)

地域(ちいき)によって形いろいろ

北海道(ほっかいどう)や東北(とうほく)地方の北部、沖縄県(おきなわけん)以外の地域(ちいき)では、古墳時代(こふんじだい)にいろいろな形の古墳(こふん)がつくられました。古墳時代(こふんじだい)の初めごろの古墳(こふん)は、どの形も、弥生時代(やよいじだい)の墓(はか)からだんだん変化(へんか)し、発展(はってん)したものです。
しかし、弥生時代(やよいじだい)の墓(はか)との大きな違(ちが)いは、長さが100mをこえる巨大な古墳(こふん)がたくさんつくられたことです。また、棺(ひつぎ)をおさめる施設(しせつ)や棺(ひつぎ)も大きくなり、副葬品(ふくそうひん)の数と種類がとても増えたことです。そうした変化(へんか)には、地域(ちいき)と時期(じき)によって、違(ちが)いがあります。
円墳
西都原古墳群111号墓/宮崎県
提供:宮崎県立西都原考古博物館
方墳
岩屋古墳/千葉県
提供:栄町教育委員会

円墳(えんぷん)・方墳(ほうふん)

古墳時代前期(こふんじだいぜんき)には、弥生時代(やよいじだい)と同じような土壙墓(どこうぼ)や周溝墓(しゅうこうぼ)もありますが、新たに円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)がつくられるようになりました。いずれも、弥生時代(やよいじだい)の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)から発展(はってん)したものです。
また、古墳時代(こふんじだい)が終わるころから平安時代(へいあんじだい)にかけて、北海道式古墳(ほっかいどうしきこふん)とか末期古墳(まっきこふん)とよばれる、とても小さな円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)がつくられました。
前方後円墳
三ッ城古墳/広島県
提供:東広島市教育委員会
前方後方墳
大安場古墳/福島県
提供:郡山市教育委員会

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、世界でも珍(めずら)しい形の古墳(こふん)です。弥生時代(やよいじだい)の終わりごろに、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)のもとになる形は瀬戸内(せとうち)地方で、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)のもとになる形は、九州(きゅうしゅう)地方や瀬戸内(せとうち)・近畿(きんき)地方、東海(とうかい)・関東(かんとう)地方でみつかっています。 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、北海道(ほっかいどう)、東北(とうほく)地方の北部、沖縄県(おきなわけん)以外の地域(ちいき)で、古墳時代(こふんじだい)の終わりまでつくられています。前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、島根県(しまねけん)以外の地域(ちいき)では、前期(ぜんき)の終わりごろからしだいに少なくなり、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が主流(しゅりゅう)となりました。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)をつくらない北海道(ほっかいどう)や東北(とうほく)地方の北部では、縄文時代(じょうもんじだい)からの土坑墓(どこうぼ)配石墓(はいせきぼ)が受けつがれます。

棺(ひつぎ)と棺(ひつぎ)をおく施設(しせつ)

古墳時代前期(こふんじだいぜんき)の近畿(きんき)地方や瀬戸内(せとうち)周辺(しゅうへん)、山陰(さんいん)地方の大きな古墳(こふん)では、割竹形木棺(わりたけがたもっかん)が使われました。長さが4m以上もある大きな木棺(もっかん)です。ただし、すべての古墳に割竹形木棺が使われたわけではありません。中型・小型の古墳(こふん)では、舟形木棺(もっかん)、箱式木棺(もっかん)や箱式石棺(せっかん)が使われ、おさない子どもを埋葬(まいそう)した甕棺(かめかん)などもありました。箱式石棺(せっかん)や箱式木棺(もっかん)は、墓穴(はかあな)に直接(ちょくせつ)埋(う)められることが多いです。
割竹形木棺(わりたけがたもっかん)
久宝寺遺跡1号墳 出土/大阪府
提供:公益財団法人大阪府文化財センター
古墳時代にはいろんな形の石棺が出土
提供:大阪府立近つ飛鳥博物館
舟形石棺
八幡茶臼山古墳/京都府

さまざまな石棺(せっかん)

前期(ぜんき)の後半から、新しい石棺(せっかん)が登場(とうじょう)します。石をくり抜(ぬ)いた割竹形石棺(せっかん)、舟形石棺(せっかん)です。長さ4m近い石棺(せっかん)であることを考えると、大きな石と石を加工する道具、そして石を割(わ)って削(けず)る技術者(ぎじゅつしゃ)がいたことがわかります。
前期(ぜんき)の終わりごろには、長持形石棺(せっかん)が登場(とうじょう)します。石をくり抜(ぬ)くのではなく、ていねいに加工した6枚の石を組み合わせてつくる大きな石棺(せっかん)です。中期(ちゅうき)の各地の大型古墳(こふん)で使われていることから、「大王(おおきみ)の棺(ひつぎ)」とよばれることもあります。
復元された家形石棺
一須賀古墳/大阪府

家の形をした棺(ひつぎ)

後期(こうき)には、新たに家形石棺(せっかん)が登場(とうじょう)します。遺体(いたい)をおさめる箱形の下の部分「身(み)」の上に、屋根形の蓋石(ふたいし)をのせた石棺(せっかん)です。大きな石を蓋(ふた)と身に分けてくり抜(ぬ)いた「刳り抜き式石棺(くりぬきしきせっかん)」と、6枚以上の加工した石を組み合わせた「組み合わせ式石棺(せっかん)」など、大王(おおきみ)だけでなく、各地の有力者(ゆうりょくしゃ)の古墳(こふん)でも広く使われています。
竪穴式石槨
久里双水古墳/佐賀県
提供:唐津市教育委員会

竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)

木棺(もっかん)をたくさんの石で囲(かこ)んだ施設(しせつ)のことを石槨(せっかく)とよびます。木棺(もっかん)を置(お)いてから、そのまわりに石を積(つ)んで木棺(もっかん)をおおったのが石槨(せっかく)です。
みなさんの教科書で「竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)」と書いているのは、このことです。「石室(せきしつ)」とは、人が立って入れるくらいの空間を石でつくったものをさします。竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)は、棺(ひつぎ)をおおう施設(しせつ)なので、人が立ってはいれるほどの空間はありません。昔の研究者が「竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)」と名づけましたが、現代(げんだい)では「竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)」とよぶのが正しいとされています。
大量の腕輪形石製品が出土した粘土槨
島の山古墳/奈良県

粘土槨(ねんどかく)

粘土槨(ねんどかく)は、割竹形木棺(わりたけがたもっかん)を、石ではなく粘土(ねんど)でくるんだものです。奈良県(ならけん)の島の山古墳(しまのやまこふん)の前方部(ぜんぽうぶ)で発見(はっけん)された粘土槨(ねんどかく)は、長さ8.5mもあり、木棺(もっかん)をくるんだ粘土(ねんど)の中から130点をこえる、さまざまな腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)が出土(しゅつど)しました。しかし、こうした石槨(せっかく)や粘土槨(ねんどかく)は、古墳時代後期(こふんじだいこうき)にはなくなりました。
古墳時代後期の円墳にしつらえられた横穴式石室
古津賀古墳/高知県
提供:四万十市教育委員会
石積みの横穴式石室
老司古墳/福岡県
提供:福岡市

横穴式石室
(よこあなしきせきしつ)

古墳時代後期(こふんじだいこうき)に流行(りゅうこう)する横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は、棺(ひつぎ)を置(お)くためにつくられた、大きな石づくりの部屋(へや)です。1つの壁(かべ)に出入口があって、人が歩いて入っていくことができるので、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とよびます。
横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は、北部九州(ほくぶきゅうしゅう)の竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)が朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の石室(せきしつ)の影響(えいきょう)を受けて変化(へんか)して生まれた施設(しせつ)です。それが、しだいに日本列島(れっとう)全域(ぜんいき)に広まっていきますが、地域(ちいき)によって出現(しゅつげん)する時期が違(ちが)います。
福岡県(ふくおかけん)の老司古墳(ろうじこふん)と鋤崎古墳(すきざきこふん)は、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を使ったもっとも古い古墳(こふん)です。ここでは石室(せきしつ)の中に3人埋葬(まいそう)されていました。発掘調査(はっくつちょうさ)によって、石室(せきしつ)の出入り口が2回あけられたことがわかり、最初の埋葬(まいそう)の後、2人を次々に埋葬(まいそう)したと考えられます。このように、一度使った墓(はか)に後から追加(ついか)で埋葬(まいそう)することを、追葬(ついそう)といいます。
一つの石室に何人もの人を埋葬(まいそう)するのが、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の役目といえます。一つの石室に16人も埋葬(まいそう)されていた古墳(こふん)もあります。

副葬品(ふくそうひん)

古墳(こふん)の副葬品(ふくそうひん)は、弥生時代(やよいじだい)にくらべると、数と種類(しゅるい)が多くなりました。
副葬品(ふくそうひん)で有名(ゆうめい)なのは、銅鏡(どうきょう)です。弥生時代(やよいじだい)に銅鏡(どうきょう)を副葬(ふくそう)したのは、ほとんど北部九州の地域(ちいき)だけでした。
古墳時代(こふんじだい)には、各地の古墳(こふん)で銅鏡(どうきょう)が出土(しゅつど)しています。ただし、奈良県(ならけん)の黒塚古墳(くろづかこふん)のように、たくさんの銅鏡(どうきょう)を副葬(ふくそう)するのは古墳時代前期(こふんじだいぜんき)だけです。そのほかの副葬品(ふくそうひん)では、貝の腕輪(うでわ)をまねた石でつくった腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)の副葬(ふくそう)も、前期(ぜんき)に流行(はや)ります。
銅鏡が発見されたときのようすを復元
黒塚古墳/奈良県
土器が供えられた墓
国富中村古墳/島根県
提供:島根県立古代出雲歴史博物館
たくさんの鉄器(副倉庫の再現)
アリ山古墳/大阪府
出典:大阪府立近つ飛鳥博物館2013『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』より

死者への贈(おく)りもの

副葬(ふくそう)される鉄器(てっき)は、いろいろあります。刀(かたな)や槍(やり)、矢じり、鎧(よろい)や甲(かぶと)などの武器(ぶき)、土をたがやす鋤(すき)や鍬(くわ)の刃先(はさき)、鎌(かま)などの農具(のうぐ)、カンナやノコギリ、ノミなどの工具(こうぐ)、釣(つ)り針(ばり)やヤス、モリなどの漁具(ぎょぐ)など、形は少し違(ちが)うものもありますが、現代(げんだい)の私たちのまわりにある鉄製(てつせい)の道具と、ほとんど変わらないものが副葬(ふくそう)されています。
前期(ぜんき)から中期に(ちゅうき)には、たくさんの鉄器(てっき)が副葬(ふくそう)されました。日本で2番目に大きい大阪府(おおさかふ)の古市古墳群(ふるいちこふんぐん)に属(ぞく)するアリ山古墳(ありやまこふん)では、鉄器(てっき)だけを副葬(ふくそう)した土壙(どこう)があり、約2700点もの鉄の武器(ぶき)や工具(こうぐ)が出土(しゅつど)しました。貴重(きちょう)な鉄器(てっき)をたくさん副葬(ふうそう)することで、古墳(こふん)の主(あるじ)の力を見せつけたのでしょうか。
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