平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)、そして平安京(へいあんきょう)へ

 781年に即位(そくい)した桓武天皇(かんむてんのう/737年~806年は、新しい政治をはじめるために、それまでずっと政治(せいじ)の中心地であった大和国(やまとのくに/今の奈良県)から都(みやこ)を移すことを決めました。784年、天皇(てんのう)は今の京都府(きょうとふ)の向日市(むこうし)・長岡京市(ながおかきょうし)のあたりに新しい都をつくり、そこに移(うつ)りました。これが長岡京(ながおかきょう)です。平城京(へいじょうきょう)には大きな川がありませんでしたが、長岡京(ながおかきょう)はすぐそばに桂川(かつらがわ)が流れています。この川は、淀川(よどがわ)という大きな川になり、大阪湾(おおさかわん)につながっているので、船(ふね)で行き来(き)ができて、とても便利(べんり)です。
 桓武天皇(かんむてんのう)は熱心(ねっしん)に長岡京(ながおかきょう)をつくろうとしましたが、有力(ゆうりょく)な貴族(きぞく)の中には天皇(てんのう)の新しい政治(せいじ)をこころよく思わない者もいたため、殺人事件(さつじんじけん)がおきたり、悪いうわさがながれたりして、桓武天皇(かんむてんのう)の計画(けいかく)がうまくいかなくなりました。そこで、桓武天皇(かんむてんのう)は違(ちが)う場所に都(みやこ)を移(うつ)し、794年、「平安京(へいあんきょう)」が誕生(たんじょう)しました。
 さて、長岡京(ながおかきょう)は、10年というみじかい間の都(みやこ)であったため、平安京(へいあんきょう)に移(うつ)るまでの「仮(かり)の都(みやこ)」のように思われていましたが、長岡京(ながおかきょう)の跡(あと)を発掘調査(はっくつちょうさ)してみると、みごとに完成(かんせい)された宮殿(きゅうでん)や貴族(きぞく)の邸宅(ていたく)、ふつうの人々の家などの跡(あと)がぞくぞくと発見(はっけん)され、長岡京(ながおかきょう)の本当の姿が未完成(みかんせい)の都(みやこ)ではないことがわかってきました。

平安京(へいあんきょう)の形

 平安京(へいあんきょう)は、日本の古い都(みやこ)の中で最後(さいご)につくられただけに、それまでの都(みやこ)では不完全だったところがなおされて、理想的(りそうてき)な形になりました。たとえば、平城京(へいじょうきょう)や長岡京(ながおかきょう)では、都(みやこ)の中に自然(しぜん)の川がくねくねと流(なが)れていましたが、平安京(へいあんきょう)では南北の道路(どうろ)にそったまっすぐな運河(うんが)にまとめられました。
 平城京(へいじょうきょう)の形は左右対称(さゆうたいしょう)ではありませんでしたが、平安京は完全に左右対称(さゆうたいしょう)でした。平安京(へいあんきょう)のまん中につくられたメイン・ストリートの「朱雀大路(すざくおおじ)」は、道の幅(はば)が約84mもある大きな通りです。この大通りの東側を「左京(さきょう)」、西側を「右京(うきょう)」といいます。
 平安京(へいあんきょう)全体の大きさは、東西(とうざい)が約4.5km、南北(なんぼく)が約5.2kmのたてに長い長方形でした。そのなかは、それまでの都と同じように、碁盤(ごばん)のマス目のように、まっすぐな道路でくぎって町が造られました。その町はどこも一辺が約120mの正方形にそろえてあります。
 平安京(へいあんきょう)のいちばん北の端(はし)には、「平安宮(へいあんきゅう)」または「大内裏(だいだいり)」とよばれる場所がありました。ここは、儀式(ぎしき)などをおこなう重要な建物(たてもの)や、天皇(てんのう)が暮(く)らす「内裏(だいり)」、そして、国の役所の建物がたちならび、たくさんの貴族(きぞく)や役人たちが仕事をしていました。まさに、ここが国の政治(せいじ)の中心でした。

貴族の邸宅(ていたく)

 平安京(へいあんきょう)には、国の政治(せいじ)をおこなうたくさんの貴族(きぞく)が住んでいました。彼らの邸宅(ていたく)もその身分(みぶん)によって大きさがちがい、高い身分(みぶん)の貴族(きぞく)は1町(ちょう 約120m×120m)の大きさが標準(ひょうじゅん)でした。摂関政治(せっかんせいじ)のいちばん盛(さか)んな時代を作り上げた藤原道長(ふじはらのみちなが)の邸宅(ていたく)は、2町(南北約250m×東西約120m)、その子の頼通(よりみち)の邸宅(ていたく)は4町(約250m×250m)といいますから、ものすごく広いですね。
 平安時代(へいあんじだい)の中ごろ、摂関政治(せっかんせいじ)が盛(さか)んな時は、貴族(きぞく)の邸宅(ていたく)は「寝殿造(しんでんづくり)」になります。これは、まんなかに主人が住む「寝殿(しんでん)」という大きな建物をおき、そのまわりに左右対称(さゆうたいしょう)になるようにいくつもの建物を建て、それぞれの建物を廊下(ろうか)でつないで、いちいち地面に降(お)りなくても別の建物に行けるようにしていました。「寝殿」の前の広い庭(にわ)には大きな池がありました。美しい池のある庭は、貴族(きぞく)の自慢だったようです。
 ただ、最近の発掘調査(はっくつちょうさ)では、貴族(きぞく)の邸宅(ていたく)のすべてが寝殿造(しんでんづくり)ではなかったこともわかってきました。ある女性貴族の邸宅(ていたく)では、邸宅(ていたく)の中に大きな池をもつ庭を作っていましたが、寝殿造(しんでんづくり)のような南向きの左右対称形(さゆうたいしょうけい)ではありませんでした。ここでみつかった池の底(そこ)の土には菖蒲(しょうぶ)の花粉(かふん)がたくさん含まれており、池のまわりに菖蒲(しょうぶ)がたくさん植えられていたことがわかっています。

平安京(へいあんきょう)を取り囲(かこ)むたくさんの寺

 奈良時代(ならじだい)には、都(みやこ)にあった寺の僧(そう)たちが、政治にいろいろ要求(ようきゅう)するようになりました。そうしたことを避(さ)けるために、平安京(へいあんきょう)を造(つく)った桓武天皇(かんむてんのう)は、東寺(とうじ)と西寺(さいじ)という2つの寺以外には、都(みやこ)の中に寺を造(つく)ることを許(ゆる)しませんでした。
 しかし、だからといって平安時代(へいあんじだい)に仏教(ぶっきょう)が衰(おと)えたわけではなく、反対にますます盛(さか)んになりました。大きな寺は、平安京(へいあんきょう)の外に造(つく)られたのです。天皇(てんのう)も力のある貴族(きぞく)も、きそいあうように大きな寺を建(た)てたり、寺を建(た)てるために協力(きょうりょく)しました。
 平安京(へいあんきょう)の外の嵯峨(さが)には、嵯峨上皇(さがじょうこう)の別荘(べっそう)である嵯峨院(さがいん)があり、上皇(じょうこう)が亡くなったあとに、大覚寺(だいかくじ)という寺になりました。平安京(へいあんきょう)の西北(せいほく)には、宇多天皇(うだてんのう)が亡(な)くなった父のために仁和寺(にんなじ)を建(た)てました。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として活躍(かつやく)した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、清水寺(きよみずでら)を建(た)てることに協力(きょうりょく)しました。
 藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安京(へいあんきょう)の東に法成寺(ほうじょうじ)という大きな寺を建(た)てました。藤原頼通(ふじわらのみちより)は藤原氏(ふじわらし)の別荘(べっそう)がたくさんあった宇治(うじ)に平等院(びょうどういん)を建てました。1001体の観音(かんのん)さまがずらりと並んでいる三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、もとは平清盛(たいらのきよもり)が後白河法皇(ごしらかわほうおう)のために建(た)てたものでした。こうして平安京(へいあんきょう)は、「仏教(ぶっきょう)の都」としても栄(さか)えることになったのです。これらの寺のうち、法成寺(ほうじょうじ)は残っていませんが、それ以外の寺は、いまも京都(きょうと)にあり、多くの人がおとずれています。

都(みやこ)から遠(とお)い 地方(ちほう)のようす

 奈良時代(ならじだい)につづいて、平安時代(へいあんじだい)にも、全国に役所(やくしょ)がおかれました。日本全国をおさめるために、66の「国(くに)」に分けられました。ちょっとややこしいのですが、国といっても、今の「日本国」とか「アメリカ合衆国(がっしゅうこく)」という場合の「国家(こっか)」ではありません。いまの都道府県(とどうふけん)のような、地方の分け方だと思っておいてください。それぞれの「国」には、「国府(こくふ)」という都市(とし)があり、そこにいまの県庁(けんちょう)にあたる「国衙(こくが)」が建(た)てられていました。
 これは奈良時代(ならじだい)の68ヵ国から受(う)け継(つ)いだものですが、全国の中で、東北地方(とうほくちほう)の陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)と九州(きゅうしゅう)は、平安京(へいあんきょう)から遠いこともあって、特別(とくべつ)のしくみがつくられていました。東北地方(とうほくちほう)には、いまの宮城県(みやぎけん)につくられた「多賀城(たがじょう)」が、東北地方(とうほくちほう)全体をおさめていました。東北地方(とうほくちほう)にもともと住んでいた「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々を支配(しはい)するために、多賀城(たがじょう)は、単なる役所(やくしょ)でなく、軍事的(ぐんじてき)な「城(しろ)」としての役割(やくわり)をもっていました。
 九州(きゅうしゅう)には、いまの福岡県(ふくおかけん)に「大宰府(だざいふ)」という役所(やくしょ)がおかれ、九州(きゅうしゅう)全体を治(おさ)めるとともに、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との外交(がいこう)や防衛(ぼうえい)の役目(やくめ)もはたしました。ですから、大宰府(だざいふ)には、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の高麗(こうらい)からの品物も集まって栄(さか)えました。

平安京(へいあんきょう)

◎平安時代(へいあんじだい)は、約400年続きました。

時代年表

荘園(しょうえん)の登場(とうじょう)

縄文海進(じょうもんかいしん):イメージ画像

 地方のことでもうひとつだいじなのは、平安時代には「荘園(しょうえん)」が発達(はったつ)したことです。荘園(しょうえん)とは、有力な貴族(きぞく)や大きな寺や神社のものになった村や田畑のことで、持(も)ち主(ぬし)の力をバックとして、政府(せいふ)への税(ぜい)をおさめなくていいとか、いろいろ特別(とくべつ)なあつかいをされました。平安時代(へいあんじだい)のおわりごろには、これがますます広がって、地方の有力者が開拓(かいたく)を進めて新しい田畑を作り、それを貴族や寺・神社に寄付(きふ)して荘園(しょうえん)にし、自分はその荘園(しょうえん)の管理者(かんりしゃ)におさまります。そして、貴族(きぞく)や寺・神社に貢物(みつぎもの)をさし出す代わりに、その力によって守ってもらうことにしたのです。地方にあった国の所有地(しょゆうち)も、その土地の有力者が支配(しはい)することによって、荘園(しょうえん)と同じようなものになっていきました。このようにして、貴族(きぞく)や寺・神社の中心である京都(きょうと)には、全国からたくさんの品物が集まってくることになり、それが京都(きょうと)の繁栄(はんえい)を支えたのです。
 平安時代(へいあんじだい)の終わりごろには、地方の荘園(しょうえん)の有力者(ゆうりょくしゃ)が武力(ぶりょく)をたくわえて、まわりの地域を従(した)えていき、小さな国家(こっか)とさえいえるようなまとまりを作ったところがあります。東北地方(とうほくちほう)には、岩手県(いわてけん)の平泉(ひらいずみ)に中心をおいた「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」が大きな力を築(きず)き、東北地方(とうほくちほう)のかなりの範囲(はんい)をおさめました。平泉(ひらいずみ)にある中尊寺(ちゅうそんじ)には、金色堂(こんじきどう)という全体に金をはった豪華(ごうか)な建物がありますが、これも、京都(きょうと)の文化をとりいれた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)がつくったものです。

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