平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)、そして平安京(へいあんきょう)へ

❶平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)、そして平安京(へいあんきょう)へ

 784年、都(みやこ)を平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)に移(うつ)すことになりました。奈良(なら)にある平城京(へいじょうきょう)には大きな川がありませんでしたが、長岡京(ながおかきょう)はすぐそばに淀川(よどがわ)という大きな川があり、大阪湾(おおさかわん)につながっています。都(みやこ)から船(ふね)で遠くまで行き来ができるので、とても便利(べんり)です。
 しかし、都(みやこ)をつくる工事中に、殺人事件(さつじんじけん)がおきたり、悪いうわさがながれたりしたので、794年に京都を新しい都(みやこ)を移(うつ)すことにし、これを「平安京(へいあんきょう)」と名づけました。
 長岡京(ながおかきょう)は、10年というみじかい間の都(みやこ)でしたが、発掘調査(はっくつちょうさ)してみると、みごとに完成(かんせい)された宮殿(きゅうでん)や貴族(きぞく)の邸宅(ていたく)、ふつうの人々の家などの跡(あと)がぞくぞくと発見(はっけん)され、長岡京(ながおかきょう)はけっして未完成(みかんせい)の都(みやこ)ではないことがわかってきました。なぜこれほど短い期間に都(みやこ)を造(つく)ることができたかというと、工事の費用(ひよう)を節約(せつやく)するため、平城京(へいじょうきょう)や大阪の難波宮(なにわのみや)の建物(たてもの)の柱や瓦(かわら)を運んできて、使ったためです。

平安京(へいあんきょう)の形(かたち)

❷平安京(へいあんきょう)の形(かたち)

 平安京(へいあんきょう)に都(みやこ)が移(うつ)ってから約400年間を、平安時代(へいあんじだい)と呼(よ)んでいます。平安京(へいあんきょう)は、それまでの都(みやこ)では不完全だったところがなおされて、理想的(りそうてき)な形になりました。たとえば、平城京(へいじょうきょう)や長岡京(ながおかきょう)では、都(みやこ)の中に自然(しぜん)の川がくねくねと流(なが)れていましたが、平安京(へいあんきょう)では南北(なんぼく)の道路(どうろ)にそったまっすぐな運河(うんが)にまとめられました。
 平城京(へいじょうきょう)の形は左右対称(さゆうたいしょう)ではありませんでしたが、平安京(へいあんきょう)は完全に左右対称(さゆうたいしょう)に造(つく)られました。平安京(へいあんきょう)のまん中につくられた大通りの「朱雀大路(すざくおおじ)」は、道の幅(はば)が約84mもある大きな通りです。この大通りの東側(ひがしがわ)を「左京(さきょう)」、西側を「右京(うきょう)」といいます。
 平安京(へいあんきょう)全体の大きさは、東西(とうざい)が約4.5km、南北(なんぼく)が約5.2kmのたてに長い長方形でした。そのなかは、それまでの都(みやこ)と同じように、碁盤(ごばん)のマス目のように、まっすぐな道路でくぎって町が造(つく)られました。その町はどこも一辺(いっぺん)が約120mの正方形にそろえてあります。
 平安京(へいあんきょう)のいちばん北の端(はし)には、「平安宮(へいあんきゅう)」または「大内裏(だいだいり)」とよばれる場所がありました。ここは、儀式(ぎしき)などをおこなう重要な建物(たてもの)と、天皇(てんのう)の住まい(「内裏(だいり)」)、そして、国の政治(せいじ)をおこなう役所の建物(たてもの)がたちならび、たくさんの貴族(きぞく)や役人たちが仕事をしていました。まさに、ここが国の政治(せいじ)の中心でした。

貴族の邸宅(ていたく)

❸貴族の邸宅(ていたく)

 平安京(へいあんきょう)には、国の政治(せいじ)をおこなうたくさんの貴族(きぞく)が住んでいました。彼らの屋敷(やしき)もその身分(みぶん)によって大きさがちがいます。高い身分(みぶん)の貴族(きぞく)の屋敷(やしき)の大きさは、だいたい1町(ちょう/約120m×120m)でした。もっとも大きな権力(けんりょく)をもった貴族(きぞく)として知られる藤原道長(ふじはらのみちなが)の屋敷(やしき)は、2町(南北約250m×東西約120m)、その子の頼通(よりみち)の屋敷(やしき)は4町(約250m×250m)で、東京ドームより広いです。
 貴族(きぞく)の屋敷(やしき)は、「寝殿造(しんでんづくり)」と呼(よ)ばれます。これは、まんなかに主人が住む「寝殿(しんでん)」という大きな建物(たてもの)をおき、そのまわりに左右対称(さゆうたいしょう)になるようにいくつもの建物(たてもの)を建(た)て、それぞれの建物(たてもの)を廊下(ろうか)でつないで、地面(じめん)に降(お)りなくても別の建物(たてもの)に行けるようにしていました。「寝殿(しんでん)」の前の広い庭(にわ)には大きな池がありました。美しい池のある庭(にわ)は、貴族(きぞく)の自慢(じまん)だったようです。ある女性貴族(きぞく)の屋敷(やしき)の庭(にわ)でみつかった池の底(そこ)の土には、菖蒲(しょうぶ)の花の花粉(かふん)がたくさん含(ふく)まれており、池のまわりに菖蒲(しょうぶ)がたくさん植(う)えられていたことがわかっています。
 ただ、最近(さいきん)の発掘調査(はっくつちょうさ)では、貴族(きぞく)の屋敷(やしき)のすべてが寝殿造(しんでんづくり)ではなかったこともわかってきました。

平安京(へいあんきょう)を取り囲(かこ)むたくさんの寺

❹平安京(へいあんきょう)を取り囲(かこ)むたくさんの寺

 奈良時代(ならじだい)には、都(みやこ)にあった寺の僧(そう)たちが、政治(せいじ)にいろいろ要求(ようきゅう)するようになりました。そうしたことを避(さ)けるために、平安京(へいあんきょう)のなかには、東寺(とうじ)と西寺(さいじ)という2つの寺以外には、寺を造(つく)ることを許(ゆる)しませんでした。
 しかし、それでも平安時代(へいあんじだい)に仏教(ぶっきょう)はますます盛(さか)んになりました。大きな寺は、平安京(へいあんきょう)の外に造(つく)られたのです。天皇(てんのう)も力のある貴族(きぞく)も、きそいあうように大きな寺を建(た)てたり、寺を建(た)てるために協力(きょうりょく)しました。
 大覚寺(だいかくじ)や仁和寺(にんなじ)は天皇(てんのう)や上皇(じょうこう)がかかわる寺ですし、清水寺(きよみずでら)は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として活躍(かつやく)した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が協力(きょうりょく)して建(た)てられました。
 藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安京(へいあんきょう)の東に法成寺(ほうじょうじ)という大きな寺を建(た)てました。息子(むすこ)の藤原頼通(ふじわらのみちより)は宇治(うじ)に平等院(びょうどういん)を建(た)てました。1001体(たい)の仏像(ぶつぞう)がずらりと並(なら)んでいる三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、平清盛(たいらのきよもり)が後白河法皇(ごしらかわほうおう)のために建(た)てたものでした。こうして平安京(へいあんきょう)は、「仏教(ぶっきょう)の都(みやこ)」としても栄(さか)えることになったのです。これらの寺のうち、法成寺(ほうじょうじ)は残っていませんが、それ以外の寺は、いまも京都にあり、多くの人がおとずれています。

都(みやこ)から遠(とお)い 地方(ちほう)のようす

❺都(みやこ)から遠(とお)い 地方(ちほう)のようす

 奈良時代(ならじだい)と同じように、平安時代(へいあんじだい)にも、全国に役所(やくしょ)がおかれました。日本全国を治(おさ)めるために、66の「国(くに)」に分(わ)けました。国といっても、今の「日本国」とか「アメリカ合衆国(がっしゅうこく)」というような「国家(こっか)」ではありません。いまの都道府県(とどうふけん)のような、地方(ちほう)の分け方だと思っておいてください。それぞれの「国」には、「国府(こくふ)」という都市(とし)がつくられ、そこにいまの県庁(けんちょう)にあたる「国衙(こくが)」が建(た)てられました。「国衙(こくが)」のなかで、儀式(ぎしき)などをおこなう特に重要(じゅうよう)な建物(たてもの)がたち並(なら)ぶエリア(はんい)を「国庁(こくちょう)」と呼(よ)びます。
 東北地方(とうほくちほう)の陸奥国〔むつのくに〕と出羽国(でわのくに)と九州(きゅうしゅう)は、都(みやこ)から遠いこともあって、奈良時代(ならじだい)から特別(とくべつ)のしくみが作られていました。東北地方(とうほくちほう)は、いまの宮城県(みやぎけん)につくられた「多賀城(たがじょう)」が、東北地方(とうほくちほう)全体をおさめていました。
 九州(きゅうしゅう)は、いまの福岡県(ふくおかけん)に「大宰府(だざいふ)」という役所(やくしょ)がおかれ、九州(きゅうしゅう)全体を治(おさ)めるとともに、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との外交(がいこう)や防衛(ぼうえい)の役目(やくめ)もはたしました。

平安京(へいあんきょう)

◎平安時代(へいあんじだい)は、約400年続きました。

時代年表
  

荘園(しょうえん)の登場(とうじょう)

荘園(しょうえん)の登場(とうじょう):イメージ画像

 地方のことでもうひとつだいじなのは、平安時代には「荘園(しょうえん)」が発達(はったつ)したことです。荘園(しょうえん)とは、有力な貴族(きぞく)や大きな寺や神社のものになった村や田畑のことで、持(も)ち主(ぬし)の力をバックとして、政府(せいふ)への税(ぜい)をおさめなくていいとか、いろいろ特別(とくべつ)なあつかいをされました。平安時代(へいあんじだい)のおわりごろには、これがますます広がって、地方の有力者が開拓(かいたく)を進めて新しい田畑を作り、それを貴族や寺・神社に寄付(きふ)して荘園(しょうえん)にし、自分はその荘園(しょうえん)の管理者(かんりしゃ)におさまります。
 そして、貴族(きぞく)や寺・神社に貢物(みつぎもの)をさし出す代わりに、その力によって守ってもらうことにしたのです。地方にあった国の所有地(しょゆうち)も、その土地の有力者が支配(しはい)することによって、荘園(しょうえん)と同じようなものになっていきました。このようにして、貴族(きぞく)や寺・神社の中心である京都(きょうと)には、全国からたくさんの品物が集まってくることになり、それが京都(きょうと)の繁栄(はんえい)を支えたのです。
 平安時代(へいあんじだい)の終わりごろには、地方の荘園(しょうえん)の有力者(ゆうりょくしゃ)が武力(ぶりょく)をたくわえて、まわりの地域を従(した)えていき、小さな国家(こっか)とさえいえるようなまとまりを作ったところがあります。東北地方(とうほくちほう)には、岩手県(いわてけん)の平泉(ひらいずみ)に中心をおいた「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」が大きな力を築(きず)き、東北地方(とうほくちほう)のかなりの範囲(はんい)をおさめました。平泉(ひらいずみ)にある中尊寺(ちゅうそんじ)には、金色堂(こんじきどう)という全体に金をはった豪華(ごうか)な建物がありますが、これも、京都(きょうと)の文化をとりいれた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)がつくったものです。

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