地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなったから

❶地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなったから

 いまから1万6000年前ごろから、地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなりはじめ、寒かった旧石器時代(きゅうせっきじだい)とは生活のしかたが大きく変わりました。このころから米づくりがはじまる紀元前(きげんぜん)9世紀ごろまでを「縄文時代(じょうもんじだい)」とよびます。縄文時代(じょうもんじだい)には、土器(どき)や石をすり磨(みが)いて作る磨製石器(ませいせっき)、弓矢(ゆみや)、漁具(ぎょぐ)など新しい道具が登場(とうじょう)します。この時代(じだい)の土器(どき)には、縄(なわ)をころがした模様(もよう)がつく土器(どき)が多いので、縄文土器(じょうもんどき)とよびますが、縄(なわ)の模様(もよう)がつかない土器(どき)も珍(めずら)しくありません。
 地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなると、木の実をつける落葉樹(らくようじゅ)や常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)の森が広がりました。また、陸地(りくち)の氷河(ひょうが)が溶(と)けて海に流れていくので、海水面が上昇(じょうしょう)し、魚や貝がとれる入り江や砂浜も広がりました。自然が大きく変化したことで、食べ物の種類(しゅるい)も増えたのです。

自然の恵みをいただいて、生きる

❷自然の恵みをいただいて、生きる

 落葉樹(らくようじゅ)や常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)の森には、ドングリやクリ、クルミなどのナッツ類、アケビやブドウ、イチゴなどのベリー類、キノコや山菜(さんさい)など、食べられる植物がたくさんあります。森でひろい集めた植物が、食事の中心となりました。しかし、植物には、ナマで食べると毒(どく)があったり、アクがあって食べられないものも多いのです。それが食べられるようになるのは、土器(どき)のおかげです。土器(どき)は、お鍋(なべ)です。熱(ねつ)を加えて煮炊(にた)きをすることで、殺菌(さっきん)やアクぬきができるほか、栄養分(えいようぶん)の吸収性(きゅうしゅうせい)が高まり、消化(しょうか)も良くなったと考えられます。
 地球(ちきゅう)が暖(あたた)かくなり、森がどんどん広がりました。動物や鳥たちも、食べられる実をもとめて森に集まってきます。すばしこい動物や鳥をとるために、弓矢(ゆみや)が登場(とうじょう)しました。
 暖(あたた)かくなると、海水面が上昇(じょうしょう)します。入り江や砂浜、湖や川も広がります。水温が高くなったから、水の中に入っていくこともできます。人々は漁具(ぎょぐ)や丸木船(まるきぶね)を作り、魚や貝をとって食べるようになりました。

ムラをつくる

❸ムラをつくる

 暖(あたた)かくなったことで、旧石器時代(きゅうせっきじだい)よりも、自然のなかでとれる食べ物がずいぶん豊かになりました。だから、もう動物を追いかけて移動生活(いどうせいかつ)をしなくてもよくなり、同じ場所でずっと暮(く)らす定住生活(ていじゅうせいかつ)がはじまりました。
 定住生活(ていじゅうせいかつ)をするために、木を切りたおして空き地を作り、しっかりした住居(じゅうきょ)を作ります。そこで必要なのが、堅(かた)い石を磨(みが)いてつくる磨製(ませい)の石斧(いしおの)でした。そして、人々は石斧(いしおの)を使って住居(じゅうきょ)としてたて穴建物(たてもの)を 倉庫(そうこ)としてほったて柱建物(たてもの)を建(た)てました。しかし、このような作業(さぎょう)は1つの家族だけではできないので、人々はみんなで協力しました。複数(ふくすう)の家族が、いっしょに暮(く)らすようになり、あちこちにムラができました。

祈(いの)りと祭り

❹祈(いの)りと祭り

 ムラでは、みんなが「今日も食べ物が手に入りますように」と、神さまにお祈(いの)りしました。狩(か)りや漁(りょう)でえものがとれたら、感謝(かんしゃ)の儀式(ぎしき)をしました。
 台風や雷(かみなり)、地震(じしん)、火山の噴火(ふんか)など、おそろしい災害(さいがい)がおきるたびに、自然の大きな力に気づき、「毎日の暮(く)らしがうまくいきますように」と、祈(いの)りました。「赤ちゃんが無事に生まれますように」と、神さまにお願いしました。人が亡くなると、家族が暮(く)らす家のそばに埋葬(まいそう)し、「またこのムラに生まれてくるように」と、祈(いの)りました。
 祈(いの)りや祭りに使うための品物も、いろいろ作りました。土偶(どぐう)という、粘土(ねんど)でつくった人の形の土製品(どせいひん)も、神さまにお願いをするためのものだと考えられています。

新しい時代(じだい)へ

❺新しい時代(じだい)へ

 縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(いせき)は、東日本と九州に多くあり、九州をのぞく西日本には少ないです。しかし、縄文時代(じょうもんじだい)の終わりごろ、東日本の遺跡(いせき)の数が減(へ)りました。このころ、地球(ちきゅう)が寒くなったことで、人口が多かった東日本では、食料が不足したせいか、生きていくのがとても大変になったようです。祭りや儀式(ぎしき)で使われた道具がたくさん作られるのも、そのころです。みんなが必死(ひっし)に神さまにお願いやお祈(いの)りをしていたのでしょう。
 西日本に移住(いじゅう)する人々もいて、東日本の文化が西日本に伝わっていきました。このようにして、日本列島(れっとう)全体で大きな変化が起きて、新しい時代(じだい)をむかえるのです。

もっと知りたい旧石器時代(旧石器時代)

◎縄文時代(じょうもんじだい)は、6つの時期(じき)にわけられます。1万2000年以上続きました。

時代年表

縄文海進(じょうもんかいしん)

縄文海進(じょうもんかいしん):イメージ画像

 縄文時代(じょうもんじだい)に入り、地球(ちきゅう)がどんどん暖(あたた)かくなると、陸地(りくち)の氷がとけて海に流れこむので、海水面が高くなります。これを縄文海進(じょうもんかいしん)といいます。
 日本列島(れっとう)では、縄文時代前期(じょうもんじだいぜんき)が温暖化(おんだんか)のピークで、いまより平均気温が2℃高かったといわれています。それは、いまの東京都(とうきょうと)が九州の鹿児島県(かごしまけん)と同じくらい暖(あたた)かい気候です。そのころ、日本列島(れっとう)のまわりの海は5mも水面が高くなりました。なぜそういうことがわかるかというと、いまは海から遠(とお)い埼玉県(さいたまけん)の貝塚(かいづか)で、海にいる貝の貝ガラでつくられたものが見つかっているからです。もしかすると、みなさんの町も、昔は海の底だったかもしれませんよ。

貝塚(かいづか)

貝塚(かいづか):イメージ画像

 貝塚(かいづか)は、貝ガラをはじめ、魚や動物・鳥の骨、ドングリのカラ、植物の種や実のカケラなど、人々が食べ残したものが厚(あつ)く積(つ)もった場所です。貝塚(かいづか)を調べると、そのころの人々が何を食べていたかがわかります。
 また、壊(こわ)れた土器(どき)や石器(せっき)、骨角器(こっかくき)なども出土(しゅつど)します。だから、貝塚(かいづか)は、ゴミ捨て場だとよく言われます。しかし、ヒスイの玉やアクセサリー、黒曜石(こくようせき)などの貴重品(きちょうひん)が出土(しゅつど)しているほか、火を焚(た)いた跡(あと)や、儀式(ぎしき)をしたような跡(あと)もみつかっています。また、時には人が埋葬(まいそう)されています。だから、貝塚(かいづか)はただのゴミ捨て場ではなく、自分たちが食べた生き物や、使い終(お)わった道具(どうぐ)など、役目(やくめ)が終わったものに感謝(かんしゃ)して、「また帰ってきてね」と見送る場だったという意見もあります。

貯蔵穴(ちょぞうけつ)

貯蔵穴(ちょぞうけつ):イメージ画像

 貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、食べ物などを保管(ほかん)するために掘(ほ)った穴です。貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、1つのムラで何十基(き)もみつかります。縄文人(じょうもんじん)が定住(ていじゅう)をするために必要だったのです。貯蔵穴(ちょぞうけつ)には、ドングリなどを直接(ちょくせつ)いれるタイプと、食べ物がはいった土器(どき)を並べておくタイプがあります。直接(ちょくせつ)入れる貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、東日本では台地や丘(おか)の上のムラのなかにあることが多いのですが、西日本では川などの水辺(みずべ)につくられたものが多く見られます。貯蔵穴(ちょぞうけつ)に水を貯(た)めてドングリをつけておくことでアクがぬけるし、芽(め)が出るのを防(ふせ)いだり、ドングリのなかの、虫の卵や幼虫(ようちゅう)をころすなどの効果(こうか)があったと考えられます。

土偶(どぐう)と石棒(せきぼう)

土偶(どぐう)と石棒(せきぼう):イメージ画像

 縄文人(じょうもんじん)は、祈(いの)りや祭りの道具をたくさん作っていました。その道具で目立つのが、土偶(どぐう)です。
 土偶(どぐう)は、粘土(ねんど)で作って焼いた、小さな人形(ひとがた)です。おっぱいがあったり、妊婦(にんぷ)のような姿であったり、女性をかたどったものが多いのが特徴(とくちょう)です。しかし、その一方(いっぽう)で、人間とは思えない、宇宙人(うちゅうじん)のような姿をした土偶(どぐう)がたくさんあるのはなぜでしょう?もしかすると、縄文人(じょうもんじん)は、神さまの姿をあらわそうとしたのかもしれません。
 これに対して、石棒(せきぼう)は、男性器(だんせいき)をあらわしたもので、住居(じゅうきょ)のなかや墓(はか)に立てられました。石棒(せきぼう)は、焼けたり壊(こわ)されたりした状態でみつかることが多いです。何かの儀式(ぎしき)に使われたのだと思われますが、どんなふうに使い、なにを祈(いの)ったのかは、よくわかっていません。

不思議な石器(せっき)・土製品(どせいひん)

不思議な石器(せっき)・土製品(どせいひん):イメージ画像

 縄文時代(じょうもんじだい)には、何に使われたのかがよくわからない、不思議(ふしぎ)なものがたくさんあります。土版(どばん)、手形・足形などの土製品(どせいひん)をはじめ、岩版(がんばん)、石冠(せっかん)、石剣(せっけん)などの石器(せっき)は、石を割(わ)って細工(さいく)して、とても手間をかけて作られているのに、最後には焼かれて壊(こわ)されたものが多いのです。何かの儀式(ぎしき)や祭りで使われたのだと考えられています。
 このような不思議な石器(せっき)や土製品(どせいひん)は、縄文時代(じょうもんじだい)の古いころからありますが、寒くなって人口が減(へ)る後期(こうき)に増えてきます。生きるのが大変な時に、みんなで必死に神さまに祈(いの)ったのかもしれません。

いろいろな墓(はか)

いろいろな墓(はか):イメージ画像

 旧石器時代(きゅうせっきじだい)には、墓(はか)はあまりみつかっていませんが、縄文時代(じょうもんじだい)には、たくさんの墓地(ぼち)がみつかっています。ふつうは、地面に穴を掘(ほ)って一人ずつ埋(う)める土坑墓(どこうぼ)ですが、穴(あな)の上に石を並(なら)べた配石墓(はいせきぼ)や、穴のなかに石を立て並(なら)べた石組墓(いしぐみぼ)もあります。墓地(ぼち)ではなく、使わなくなった貯蔵穴(ちょぞうけつ)やたて穴建物のなか、あるいは貝塚(かいづか)に埋葬(まいそう)されることもありました。子どもが死ぬと、遺体(いたい)を土器にいれて、大人の墓(はか)とは別に、住居の近くに埋葬(まいそう)しました。子どもが寂(さび)しくないように、家族のそばに葬(ほうむ)ったのでしょう。
 遺体(いたい)は、膝(ひざ)を曲(ま)げた屈葬(くっそう)ですが、やがて足をのばした伸展葬(しんてんそう)もあらわれました。頭に土器(どき)をかぶせたり、胸(むね)のあたりに大きな石を抱(だ)かせるように置(お)いて葬(ほうむ)られた人もいます。なぜそういうことをしたのかは、よくわかっていません。

副葬品(ふくそうひん)

副葬品(ふくそうひん):イメージ画像

 縄文時代(じょうもんじだい)から、死者とともに、いろいろな品物を墓(はか)にいれるようになります。その品物を副葬品(ふくそうひん)といいます。石の矢じり石斧(いしおの)など生活の道具、石剣(せっけん)や土偶(どぐう)など祈(いの)りの道具、土器(どき)などが副葬(ふくそう)されます。女性の墓には料理を作るのに必要な石皿(いしざら)が、男性の墓には石斧(いしおの)が、よく副葬(ふくそう)されています。
 また、副葬品(ふくそうひん)ではなく、死者が身に着けていたアクセサリーが、墓から出土(しゅつど)することもあります。墓地(ぼち)では、副葬品(ふくそうひん)がみつからない墓(はか)の方が多いので、副葬品(ふくそうひん)やアクセサリーがみつかった墓(はか)は、ムラのなかでも有力(ゆうりょく)な人が葬(ほうむ)られたと考えられます。

大きな共同墓地(きょうどうぼち)

大きな共同墓地(きょうどうぼち):イメージ画像

 関東(かんとう)地方に多い環状集落(かんじょうしゅうらく)では、ムラの中心の広場が墓地(ぼち)になっており、ここで祭りもおこないました。死んだ人たちの魂(たましい)が、ムラを守ってくれると思ったのかもしれません。
 しかし、縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)になると、ムラから離れたところに墓地(ぼち)をつくることが増えてきました。東北(とうほく)地方では、直径40mを超える大きなドーナツ形に、石を集めたり立てたりして墓(はか)を並べた、環状列石(かんじょうれっせき)という大きな墓地(ぼち)がつくられました。環状列石(かんじょうれっせき)は、いくつものムラが共同で使う墓地(ぼち)だと考えられます。環状列石(かんじょうれっせき)には、祭りをしたような場所も作られています。
 北海道(ほっかいどう)では、周堤墓(しゅうていぼ)という、大きなドーナツ形の共同墓地(ぼち)がみられますが、石ではなく、土を盛り上げた土手(どて)でドーナツ形を作り、その内側に多くの人々を埋葬(まいそう)しました。なぜこれほど大きな墓地(ぼち)をつくったのでしょうか?
 縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)には、地球(ちきゅう)がまた少し寒くなり、生きていくのが大変で人口が減(へ)りました。そういう時は、助けあって生きていかなくてはなりません。いっしょに墓(はか)をつくったり、葬式(そうしき)をしたりすることによって、つながりを深めていたのではないかと考えられています。(「行ってみよう北海道(ほっかいどう)、青森県(あおもりけん)、秋田県(あきたけん)、岩手県(いわてけん)」をみてね)

遠くまで移動(いどう)した人やモノ

遠くまで移動(いどう)した人やモノ:イメージ画像

 縄文人(じょうもんじん)は、磨製(ませい)の石斧(いしおの)で丸木船(まるきぶね)を作り、海を渡(わた)ってずいぶん遠いところまで出かけました。なぜそういうことがわかるかというと、一つは、土器(どき)です。土器(どき)は、地域(ちいき)によって特徴(とくちょう)があるので、大阪(おおさか)で東北(とうほく)地方の土器(どき)がみつかったり、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)で九州の土器(どき)がみつかったりして、人が動いていることがわかります。この人たちは、なぜ移動(いどう)したのか、何かを探して旅をしたのか、新しい土地に引っ越そうと思ったのか、……理由(りゆう)はいろいろあったでしょう。
 また、地域(ちいき)の特産物(とくさんぶつ)が遠いところまで運(はこ)ばれることもありました。たとえば、新潟県(にいがたけん)でとれるヒスイ、長野県(ながのけん)や北海道(ほっかいどう)などでとれる黒曜石(こくようせき)は、ずいぶん遠くまで運(はこ)ばれました。みんなが欲しがったのですね。長野県(ながのけん)のように海に面していない県でも、貝やサメの歯でつくったアクセサリーが出土(しゅつど)したりします。遠い海へのあこがれがあったことでしょう。

物々交換(ぶつぶつこうかん)

物々交換(ぶつぶつこうかん):イメージ画像

 いまみたいにお金がない時代(じだい)、人々は、どのようにして欲しいものを手に入れたのでしょうか。人はそれぞれに、もっているもの、もっていないものがあります。つまり、自分はもっていなくても、もっている人はいるのです。
 山で暮(く)らす人は、海の魚や貝が珍(めずら)しいので、「その貝のうで輪(わ)を、このイノシシの肉と交換(こうかん)しませんか。おいしいですよ」という。海の近くで暮(く)らす人は、イノシシやシカの肉、キノコや山菜がほしかったでしょうし、またそういうものを煮炊(にた)きするのに必要な火をもやすタキギが、なかなか手に入りません。「この魚の干物(ひもの)とタキギを交換(こうかん)してくれませんか」……そんなやりとりがあったことでしょう。
 生きていくためには、知らない人とそんな会話(かいわ)ができるかどうかがとても重要(じゅうよう)です。21世紀のいま、私たちも、自分ひとりでは生きていけません。だれかを助けたり、だれかに助けてもらったりすることは、生きるためにとても大切なことなのです。

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