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3世紀中ごろ、大和(やまと/いまの奈良県)に最初の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられました。その後、7世紀の初めまで、各地に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられました。この時代(じだい)を古墳時代(こふんじだい)とよびます。 古墳(こふん)は、土を盛(も)りあげてつくった大きな墓(はか)で、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、円墳(えんぷん)、方墳(ほうふん)、帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)など、さまざまな形があります。日本には、約16万もの古墳(こふん)があるといわれています。しかし、沖縄県(おきなわけん)では、古墳(こふん)はつくられません。東北(とうほく)地方の北部や北海道(ほっかいどう)では、7世紀以降に「末期古墳(まっきこふん)」とよばれる小型の小さな円墳(えんぷん)がつくられます。墓(はか)づくりにも、地域(ちいき)によって特色があります。
さまざまな形の古墳(こふん)のなかで、もっとも大きいのが前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)は世界各地にありますが、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は日本列島(れっとう)独特(どくとく)の形です。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、岩手県(いわてけん)から鹿児島県(かごしまけん)までの地域(ちいき)にありますが、もっとも大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、大和(やまと/いまの奈良県)や河内・和泉(かわち・いずみ/いまの大阪府)地方に集中しており、この時代(じだい)の日本列島(れっとう)のなかでもトップクラスの有力者(ゆうりょくしゃ)たちの墓(はか)だといえます。大和(やまと/いまの奈良県)を中心としたそれらの有力者(ゆうりょくしゃ)と、それを支えたまわりの豪族(ごうぞく)たちによって、ヤマト政権(せいけん)が誕生(たんじょう)しました。そのトップにいた支配者は「大王(おおきみ)」とよばれていたことが、古墳(こふん)から出土(しゅつど)した銅鏡(どうきょう)や刀剣(とうけん)に刻(きざ)まれた銘文(めいぶん)でわかります。
いま、私たちが見る古墳(こふん)は、たくさん木が生えて、小さな山のようですが、つくられたころの古墳(こふん)は、盛(も)り土の上に葺石(ふきいし)という石をぎっしり並べていたので、石の山のようにみえたはずです。長い年月の間に、古墳(こふん)の上に自然に土がたまり、木が生えていったのです。 古墳(こふん)の頂上(ちょうじょう)や、造出し(つくりだし)と呼ばれるテラスのような出っぱりの場所に、埴輪(はにわ)が並べられます。古墳(こふん)のまわりに濠(ほり)がめぐらされたものもあります。古墳(こふん)の中には、人を埋葬(まいそう)します。埋葬(まいそう)のしかたは、時期によって違(ちが)います。古墳時代前期(こふんじだいぜんき)には木棺(もっかん)とたて穴式石室(たてあなしきせきしつ)、中期(ちゅうき)には石棺(せっかん)が登場(とうじょう)し、後期(こうき)には横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が広く使われます。
古墳時代(こふんじだい)の人々の日常生活は、弥生時代(やよいじだい)とそれほど大きく変わっていません。変わった点は、5世紀ごろに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から渡来人(とらいじん)がたくさんやってきたので、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)のものや技術(ぎじゅつ)、文化がいろいろ入ってきたことです。 食生活では、蒸し器(むしき)として使う土器(どき)が伝わって、米を蒸(む)して食べることがはじまりました。また、住居のなかに、カマドが作られるようになりました。ファッションでは、青銅製品(せいどうせいひん)の表面に金をはった金銅製(こんどうせい)の冠(かんむり)や耳かざりが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わってきました。また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から馬が運ばれてきて、馬に乗るようになりました。馬は、移動(いどう)するのに便利(べんり)なうえ、戦場(せんじょう)でも大活躍(だいかつやく)するので、急速(きゅうそく)に広まりました。馬に乗るために、男性はズボンやクツをはくようになりました。
古墳時代(こふんじだい)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との行き来がますます活発(かっぱつ)になりました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から人々がやってくるだけでなく、日本列島(れっとう)から朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に渡(わた)って活躍(かつやく)する人々もいました。そのころの朝鮮半島(ちょうせんはんとう)には、百済(くだら)、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)という国があり、倭国(わこく)はそれぞれの国と交流(こうりゅう)がありました。古墳時代(こふんじだい)の遺跡(いせき)や古墳(こふん)からは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の国々で作られた品、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の影響(えいきょう)を受けて日本列島(れっとう)で作られた品が出土(しゅつど)しており、交流(こうりゅう)が活発(かっぱつ)だったことがわかります。 また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の南部では、日本列島(れっとう)のものとよく似(に)た土器(どき)や埴輪(はにわ)、副葬品(ふくそうひん)のほか、日本特有(とくゆう)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)もみつかっており、文化の交流(こうりゅう)があったことがわかります。
◎古墳時代(こふんじだい)は、3つの時期(じき)にわけられます。およそ350年続きました。
いまのような大きな機械やトラックのない時代(じだい)、古墳(こふん)をつくるのは、たいへんです。 「仁徳陵(にんとくりょう)」として知られる大山古墳(だいせんこふん)は、日本最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。この大山古墳(だいせんこふん)をつくるのに、いったいどれくらいの人手(ひとで)と時間、費用(ひよう)がかかったのかを、土木・建設(どぼく・けんせつ)の仕事をする、ある会社が計算してみました。結果は、イラストのとおりです。 ちなみに、これらの計算には古墳(こふん)にならべる埴輪(はにわ)や死者をおさめる棺(ひつぎ)、副葬品(ふくそうひん)をつくる仕事は含まれていません。それらを加えると、本当に大規模(だいきぼ)な工事(こうじ)だったことがわかります。それだけ大勢の人に命令(めいれい)できるほど、大王(おおきみ)の力は強かったということですね。
※2000人とは古墳(こふん)づくりをする人の数で、工事を指導・監督(しどう・かんとく)する人、工事で使う道具をつくる人、食事の世話をする人などをあわせると、1日6000人ほどの人が工事にかかわっていたとされています。
大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市(おおさかふさかいし)・羽曳野市(はびきのし)・藤井寺市(ふじいでらし)にまたがる百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)に含まれています。この古墳群は、全国的にも大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が集中(しゅうちゅう)しており、2019年7月に世界文化遺産(せかいぶんかいさん)に登録(とうろく)されました。
<参考文献>大林組『季刊大林 No.20 現代技術と古代技術による仁徳陵古墳の建設』 1985年
埴輪(はにわ)といえば、みなさんは人物のような形の埴輪(はにわ)を思いうかべるでしょうが、埴輪(はにわ)のはじまりは、筒(つつ)のような円筒埴輪(えんとうはにわ)です。弥生時代(やよいじだい)には、有力者の墓(はか)に、食べ物や飲み物を入れた壺(つぼ)を供(そな)え物として並べていました。古墳時代(こふんじだい)にはその壺(つぼ)を置く台がだんだん形を変え、円筒埴輪(えんとうはにわ)や壺形(つぼがた)の埴輪(はにわ)、壺(つぼ)を台に置いた形の朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)もでてきました。また、家、船、武器(ぶき)、日傘(ひがさ)、イスのほか、イノシシ・シカ・ウマなどの動物や鳥、人物の埴輪(はにわ)もあります。これらの埴輪(はにわ)は、墳丘(ふんきゅう)をはじめ、造出し(つくりだし)や墳丘(ふんきゅう)のまわりの堤(つつみ)の上などに並べられました。こうした埴輪(はにわ)を並べる意味はよくわかりませんが、古墳(こふん)に葬(ほうむ)られた人が生きていた時の様子(ようす)を再現(さいげん)したり、死後(しご)の世界や神さまをまつる場面をあらわしているのではないかと考えられています。 人物埴輪(はにわ)には、王、武人(ぶじん)、捧(ささ)げ物をする女性、墓守(はかもり)、相撲取(すもうと)り、鵜飼(うか)い、馬ひき、琴(こと)をひく人、農民(のうみん)・・・など、いろいろな人がいます。
日本列島(れっとう)で馬がみられるようになるのは、5世紀になってからのことです。そのころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から日本列島(れっとう)に移住(いじゅう)してきた渡来人(とらいじん)がたくさんいて、海の向こうからいろいろな文化や技術(ぎじゅつ)がもちこまれました。馬も、そういう渡来人(とらいじん)たちが連れてきたようです。遺跡(いせき)や古墳(こふん)から、馬の骨や馬にのるための道具が出土(しゅつど)しているので馬がいたことがわかりますが、簡単(かんたん)な船しかない時代(じだい)に、どうやって馬を運んだのでしょうか。 いま、競馬(けいば)などでよくみる馬は体の高さが150cm以上の大型ですが、古墳時代(こふんじだい)の馬は体の高さが120~130cmほどの小さい馬でした。それでも、馬のおかげで、陸地(りくち)の移動(いどう)がとても楽になりました。荷物もたくさん運べるし、速く走れるので戦場(せんじょう)でも活躍(かつやく)しました。みんなが欲しがって、全国にどんどん広まっていきました。
古墳時代(こふんじだい)の日本列島(れっとう)を、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の人たちは「倭(わ)」と呼んでいました。そのころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の西側には百済(くだら)、東側には新羅(しらぎ)、その間に伽耶(かや)、そして北の方には高句麗(こうくり)という国がありました。 そのなかで、倭(わ)といちばん仲良しだったのは、伽耶(かや)でした。伽耶(かや)は、鉄(てつ)がとれるので、弥生時代(やよいじだい)から北部九州の人々が鉄(てつ)を手に入れるために行き来していた地域(ちいき)でした。鉄(てつ)は貴重(きちょう)な品なので、倭(わ)にとって伽耶(かや)は大切な国でした。だから、4世紀の終わりごろ、新羅(しらぎ)と高句麗(こうくり)の連合軍(れんごうぐん)が伽耶(かや)を攻(せ)めた時、倭(わ)は、伽耶(かや)を助けるために軍隊(ぐんたい)を送っていっしょに戦いました。 5世紀になると、伽耶(かや)を通して百済(くだら)とも親(した)しくなりました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では、たびたび戦いが起きていたので、百済(くだら)を助けるために、食べ物や馬などを送ったり、軍隊(ぐんたい)を送ったりしました。そのお礼に、百済(くだら)の王は、金メッキした冠(かんむり)や耳飾(かざ)り、飾(かざ)りのついた大刀(たち)など、倭(わ)がもっていないような珍(めずら)しい品物や、大陸の進んだ学問(がくもん)、技術(ぎじゅつ)、文化をもった人たちを倭(わ)に送りました。そうやって、倭(わ)は、伽耶(かや)や百済(くだら)とお互いに足りないものを与えあい、支えあっていました。
5世紀になると、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との行き来が盛(さか)んになるだけでなく、中国にもたびたび使者(ししゃ)を送っています。弥生時代(やよいじだい)の終わりごろから、丸木船(まるきぶね)の両側に板をつけた大きな船(ふね)が登場(とうじょう)するので、海の行き来も安心でずいぶん楽になったことでしょう。 古墳時代(じだい)には船(ふね)の埴輪(はにわ)があるので、だいたいの形や大きさがわかります。船形埴輪(ふながたはにわ)のなかには、旗(はた)や大刀(たち)、日傘(ひがさ)などを立てて飾(かざ)った船があります。船は、死者のたましいを運ぶと信じられていたので、死者のための船の埴輪(はにわ)が古墳(こふん)に置かれたようです。
❶古墳時代(こふんじだい)って?
3世紀中ごろ、大和(やまと/いまの奈良県)に最初の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられました。その後、7世紀の初めまで、各地に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられました。この時代(じだい)を古墳時代(こふんじだい)とよびます。
古墳(こふん)は、土を盛(も)りあげてつくった大きな墓(はか)で、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、円墳(えんぷん)、方墳(ほうふん)、帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)など、さまざまな形があります。日本には、約16万もの古墳(こふん)があるといわれています。しかし、沖縄県(おきなわけん)では、古墳(こふん)はつくられません。東北(とうほく)地方の北部や北海道(ほっかいどう)では、7世紀以降に「末期古墳(まっきこふん)」とよばれる小型の小さな円墳(えんぷん)がつくられます。墓(はか)づくりにも、地域(ちいき)によって特色があります。
❷前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とヤマト政権(せいけん)
さまざまな形の古墳(こふん)のなかで、もっとも大きいのが前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)は世界各地にありますが、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は日本列島(れっとう)独特(どくとく)の形です。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、岩手県(いわてけん)から鹿児島県(かごしまけん)までの地域(ちいき)にありますが、もっとも大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、大和(やまと/いまの奈良県)や河内・和泉(かわち・いずみ/いまの大阪府)地方に集中しており、この時代(じだい)の日本列島(れっとう)のなかでもトップクラスの有力者(ゆうりょくしゃ)たちの墓(はか)だといえます。大和(やまと/いまの奈良県)を中心としたそれらの有力者(ゆうりょくしゃ)と、それを支えたまわりの豪族(ごうぞく)たちによって、ヤマト政権(せいけん)が誕生(たんじょう)しました。そのトップにいた支配者は「大王(おおきみ)」とよばれていたことが、古墳(こふん)から出土(しゅつど)した銅鏡(どうきょう)や刀剣(とうけん)に刻(きざ)まれた銘文(めいぶん)でわかります。
❸古墳(こふん)のしくみ
いま、私たちが見る古墳(こふん)は、たくさん木が生えて、小さな山のようですが、つくられたころの古墳(こふん)は、盛(も)り土の上に葺石(ふきいし)という石をぎっしり並べていたので、石の山のようにみえたはずです。長い年月の間に、古墳(こふん)の上に自然に土がたまり、木が生えていったのです。
古墳(こふん)の頂上(ちょうじょう)や、造出し(つくりだし)と呼ばれるテラスのような出っぱりの場所に、埴輪(はにわ)が並べられます。古墳(こふん)のまわりに濠(ほり)がめぐらされたものもあります。古墳(こふん)の中には、人を埋葬(まいそう)します。埋葬(まいそう)のしかたは、時期によって違(ちが)います。古墳時代前期(こふんじだいぜんき)には木棺(もっかん)とたて穴式石室(たてあなしきせきしつ)、中期(ちゅうき)には石棺(せっかん)が登場(とうじょう)し、後期(こうき)には横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が広く使われます。
❹人々の暮(く)らし
古墳時代(こふんじだい)の人々の日常生活は、弥生時代(やよいじだい)とそれほど大きく変わっていません。変わった点は、5世紀ごろに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から渡来人(とらいじん)がたくさんやってきたので、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)のものや技術(ぎじゅつ)、文化がいろいろ入ってきたことです。 食生活では、蒸し器(むしき)として使う土器(どき)が伝わって、米を蒸(む)して食べることがはじまりました。また、住居のなかに、カマドが作られるようになりました。ファッションでは、青銅製品(せいどうせいひん)の表面に金をはった金銅製(こんどうせい)の冠(かんむり)や耳かざりが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わってきました。また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から馬が運ばれてきて、馬に乗るようになりました。馬は、移動(いどう)するのに便利(べんり)なうえ、戦場(せんじょう)でも大活躍(だいかつやく)するので、急速(きゅうそく)に広まりました。馬に乗るために、男性はズボンやクツをはくようになりました。
❺朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との交流
古墳時代(こふんじだい)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との行き来がますます活発(かっぱつ)になりました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から人々がやってくるだけでなく、日本列島(れっとう)から朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に渡(わた)って活躍(かつやく)する人々もいました。そのころの朝鮮半島(ちょうせんはんとう)には、百済(くだら)、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)という国があり、倭国(わこく)はそれぞれの国と交流(こうりゅう)がありました。古墳時代(こふんじだい)の遺跡(いせき)や古墳(こふん)からは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の国々で作られた品、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の影響(えいきょう)を受けて日本列島(れっとう)で作られた品が出土(しゅつど)しており、交流(こうりゅう)が活発(かっぱつ)だったことがわかります。
また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の南部では、日本列島(れっとう)のものとよく似(に)た土器(どき)や埴輪(はにわ)、副葬品(ふくそうひん)のほか、日本特有(とくゆう)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)もみつかっており、文化の交流(こうりゅう)があったことがわかります。
◎古墳時代(こふんじだい)は、3つの時期(じき)にわけられます。およそ350年続きました。
古墳(こふん)をつくる
いまのような大きな機械やトラックのない時代(じだい)、古墳(こふん)をつくるのは、たいへんです。
「仁徳陵(にんとくりょう)」として知られる大山古墳(だいせんこふん)は、日本最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。この大山古墳(だいせんこふん)をつくるのに、いったいどれくらいの人手(ひとで)と時間、費用(ひよう)がかかったのかを、土木・建設(どぼく・けんせつ)の仕事をする、ある会社が計算してみました。結果は、イラストのとおりです。
ちなみに、これらの計算には古墳(こふん)にならべる埴輪(はにわ)や死者をおさめる棺(ひつぎ)、副葬品(ふくそうひん)をつくる仕事は含まれていません。それらを加えると、本当に大規模(だいきぼ)な工事(こうじ)だったことがわかります。それだけ大勢の人に命令(めいれい)できるほど、大王(おおきみ)の力は強かったということですね。
※2000人とは古墳(こふん)づくりをする人の数で、工事を指導・監督(しどう・かんとく)する人、工事で使う道具をつくる人、食事の世話をする人などをあわせると、1日6000人ほどの人が工事にかかわっていたとされています。
大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市(おおさかふさかいし)・羽曳野市(はびきのし)・藤井寺市(ふじいでらし)にまたがる百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)に含まれています。この古墳群は、全国的にも大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が集中(しゅうちゅう)しており、2019年7月に世界文化遺産(せかいぶんかいさん)に登録(とうろく)されました。
<参考文献>大林組『季刊大林 No.20 現代技術と古代技術による仁徳陵古墳の建設』 1985年
●埋葬(まいそう)のようす●
いろいろな埴輪(はにわ)
埴輪(はにわ)といえば、みなさんは人物のような形の埴輪(はにわ)を思いうかべるでしょうが、埴輪(はにわ)のはじまりは、筒(つつ)のような円筒埴輪(えんとうはにわ)です。弥生時代(やよいじだい)には、有力者の墓(はか)に、食べ物や飲み物を入れた壺(つぼ)を供(そな)え物として並べていました。古墳時代(こふんじだい)にはその壺(つぼ)を置く台がだんだん形を変え、円筒埴輪(えんとうはにわ)や壺形(つぼがた)の埴輪(はにわ)、壺(つぼ)を台に置いた形の朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)もでてきました。また、家、船、武器(ぶき)、日傘(ひがさ)、イスのほか、イノシシ・シカ・ウマなどの動物や鳥、人物の埴輪(はにわ)もあります。これらの埴輪(はにわ)は、墳丘(ふんきゅう)をはじめ、造出し(つくりだし)や墳丘(ふんきゅう)のまわりの堤(つつみ)の上などに並べられました。こうした埴輪(はにわ)を並べる意味はよくわかりませんが、古墳(こふん)に葬(ほうむ)られた人が生きていた時の様子(ようす)を再現(さいげん)したり、死後(しご)の世界や神さまをまつる場面をあらわしているのではないかと考えられています。
人物埴輪(はにわ)には、王、武人(ぶじん)、捧(ささ)げ物をする女性、墓守(はかもり)、相撲取(すもうと)り、鵜飼(うか)い、馬ひき、琴(こと)をひく人、農民(のうみん)・・・など、いろいろな人がいます。
馬の登場(とうじょう)
日本列島(れっとう)で馬がみられるようになるのは、5世紀になってからのことです。そのころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から日本列島(れっとう)に移住(いじゅう)してきた渡来人(とらいじん)がたくさんいて、海の向こうからいろいろな文化や技術(ぎじゅつ)がもちこまれました。馬も、そういう渡来人(とらいじん)たちが連れてきたようです。遺跡(いせき)や古墳(こふん)から、馬の骨や馬にのるための道具が出土(しゅつど)しているので馬がいたことがわかりますが、簡単(かんたん)な船しかない時代(じだい)に、どうやって馬を運んだのでしょうか。
いま、競馬(けいば)などでよくみる馬は体の高さが150cm以上の大型ですが、古墳時代(こふんじだい)の馬は体の高さが120~130cmほどの小さい馬でした。それでも、馬のおかげで、陸地(りくち)の移動(いどう)がとても楽になりました。荷物もたくさん運べるし、速く走れるので戦場(せんじょう)でも活躍(かつやく)しました。みんなが欲しがって、全国にどんどん広まっていきました。
朝鮮半島(ちょうせんはんとう)のクニグニ
古墳時代(こふんじだい)の日本列島(れっとう)を、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の人たちは「倭(わ)」と呼んでいました。そのころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の西側には百済(くだら)、東側には新羅(しらぎ)、その間に伽耶(かや)、そして北の方には高句麗(こうくり)という国がありました。
そのなかで、倭(わ)といちばん仲良しだったのは、伽耶(かや)でした。伽耶(かや)は、鉄(てつ)がとれるので、弥生時代(やよいじだい)から北部九州の人々が鉄(てつ)を手に入れるために行き来していた地域(ちいき)でした。鉄(てつ)は貴重(きちょう)な品なので、倭(わ)にとって伽耶(かや)は大切な国でした。だから、4世紀の終わりごろ、新羅(しらぎ)と高句麗(こうくり)の連合軍(れんごうぐん)が伽耶(かや)を攻(せ)めた時、倭(わ)は、伽耶(かや)を助けるために軍隊(ぐんたい)を送っていっしょに戦いました。
5世紀になると、伽耶(かや)を通して百済(くだら)とも親(した)しくなりました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では、たびたび戦いが起きていたので、百済(くだら)を助けるために、食べ物や馬などを送ったり、軍隊(ぐんたい)を送ったりしました。そのお礼に、百済(くだら)の王は、金メッキした冠(かんむり)や耳飾(かざ)り、飾(かざ)りのついた大刀(たち)など、倭(わ)がもっていないような珍(めずら)しい品物や、大陸の進んだ学問(がくもん)、技術(ぎじゅつ)、文化をもった人たちを倭(わ)に送りました。そうやって、倭(わ)は、伽耶(かや)や百済(くだら)とお互いに足りないものを与えあい、支えあっていました。
古墳時代(こふんじだい)の船(ふね)
5世紀になると、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との行き来が盛(さか)んになるだけでなく、中国にもたびたび使者(ししゃ)を送っています。弥生時代(やよいじだい)の終わりごろから、丸木船(まるきぶね)の両側に板をつけた大きな船(ふね)が登場(とうじょう)するので、海の行き来も安心でずいぶん楽になったことでしょう。
古墳時代(じだい)には船(ふね)の埴輪(はにわ)があるので、だいたいの形や大きさがわかります。船形埴輪(ふながたはにわ)のなかには、旗(はた)や大刀(たち)、日傘(ひがさ)などを立てて飾(かざ)った船があります。船は、死者のたましいを運ぶと信じられていたので、死者のための船の埴輪(はにわ)が古墳(こふん)に置かれたようです。
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