なんと立派(りっぱ)な平城京(へいじょうきょう)!

❶古墳時代(こふんじだい)って?
   

 藤原京(ふじはらきょう)が完成してから わずか10年後の710年、元明天皇(げんめいてんのう/661年~721年)は「奈良(いまの奈良市)」の地に新しい都(みやこ)を作りました。この都(みやこ)を平城京(へいじょうきょう)といいます。「なんと(710)りっぱな平城京(へいじょうきょう)!」と覚(おぼ)えている人も多いでしょう。この平城京(へいじょうきょう)が国の中心だった時代を奈良時代(ならじだい)といいます。
 平城京(へいじょうきょう)の面積(めんせき)は25㎢ですから、いまの時代にたとえると、皇居22個、ディズニーパーク49個、東京ドームなら、なんと534個くらいの大きさです。そこには、5〜10万人が住んでいたと考えられています。それが正しければ、人口密度(じんこうみつど)は いまの大阪(おおさか)や神奈川(かながわ)と同じくらいだったことになります。
 平城京(へいじょうきょう)の北よりには、天皇(てんのう)の住まいや国の役所(やくしょ)が集中する平城宮(へいじょうきゅう)がありました。そして、都(みやこ)の真ん中にはメインストリートである朱雀大路(すざくおおじ)が通っていました。この朱雀大路(すざくおおじ)は、発掘調査(はっくつちょうさ)によって、道幅(みちはば)が74mもあったことがわかっています。大阪(おおさか)の御堂筋(みどうすじ)が44mですから、ずいぶん広い道路ですね。

大都市・平城京(へいじょうきょう)での人々の暮(く)らし

❶古墳時代(こふんじだい)って?
   

 平城京(へいじょうきょう)の中は、まるで方眼(ほうがん)の目盛りのように、タテとヨコにまっすぐな道路が通っていました。東西・ヨコ方向の道路を「条(じょう)」、南北・タテ方向の道路を「坊(ぼう)」といい、たとえば、平城京(へいじょうきょう)二条三坊(2じょう3ぼう)といえば、だいたいの住所がわかるしくみです。この条坊(じょうぼう)道路に囲(かこ)まれたマス目に、たくさんの人が家を建(た)てて暮(く)らしていました。
 運河(うんが)として使った川もあり、東西には市(いち)もおかれました。発掘調査(はっくつちょうさ)では、中国の唐(とう)で焼(や)かれた唐三彩(とうさんさい)という焼き物(やきもの)や、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の新羅(しらぎ)で焼(や)かれた壺(つぼ)=新羅土器(しらぎどき)などが出土(しゅつど)しています。日本全国だけでなく、外国からも、さまざまな人や物が集まる国際都市(こくさいとし)だったようですね。
 平城京(へいじょうきょう)で暮(く)らす人々の多くは、役人(やくにん)とその家族でした。役所(やくしょ)のある平城宮(へいじょうきゅう)のまわりには、天皇(てんのう)の一族や貴族(きぞく)の家がたくさんあり、面積(めんせき)も広いのですが、身分の高くない役人(やくにん)は、平城宮(へいじょうきゅう)から遠(とお)い場所に家があり、貴族(きぞく)の家よりもずいぶん狭(せま)いものでした。役所(やくしょ)での仕事は、夏は午前6時30分ごろ、冬でも7時50分ごろに始(はじ)まります。
 平城京(へいじょうきょう)の端(はし)から平城宮(へいじょうきゅう)までは4〜5kmもあったので、役人のお父さんたちは、夜明け前から仕事に出かけなければならなかったでしょうね。

天皇(てんのう)を中心とする国づくりと税(ぜい)

❶古墳時代(こふんじだい)って?
   

 奈良時代(ならじだい)は、天皇(てんのう)を中心とする国づくりが完成(かんせい)した時代です。律令(りつりょう)とよばれる法律(ほうりつ)やルールが決められました。農民(のうみん)は国から土地を借(か)りてお米を作り、その一部を税(ぜい)として国に納(おさ)めました。それ以外にも、布(ぬの)や綿(にしき)、塩(しお)、魚、土器(どき)なども税(ぜい)として納(おさ)めました。税(ぜい)は、納(おさ)めた人の名前や日付、内容などを書いた木の札(ふだ)を付けて運(はこ)ばれました。インターネットで買った商品についてくる送り状(じょう)のようなものです。
 この木の札(ふだ)は、商品を使う時にゴミとして捨(す)てられます。平城京(へいじょうきょう)の発掘調査(はっくつちょうさ)では、全国から運(はこ)ばれたものに付けられた木の札(ふだ)がみつかります。これを私たちは荷札木簡(にふだもっかん)とよんでいます。
 この荷札木簡(にふだもっかん)に書かれたあて先から、この場所に誰(だれ)が住んでいたのか、また、内容から、その人は何を食べていたのか、を知ることができるのです。たとえば、イラストの木簡(もっかん)には「長屋親王宮鮑・・・」と書かれています。この木簡(もっかん)によって、発掘調査(はっくつちょうさ)された場所が、長屋王(ながやおう)という有力(ゆうりょく)な貴族(きぞく)の家であったことがわかり、長屋王(ながやおう)が鮑(あわび)を食べていたこともわかったのです。

仏教(ぶっきょう)のちからで平和で安全な国づくり

❹教(ぶっきょう)のちからで平和で安全な国づくり

 平城京(へいじょうきょう)の特徴(とくちょう)のひとつは、大きなお寺(てら)がたくさんあることです。奈良時代(ならじだい)の聖武天皇(しょうむてんのう/ 701年~756年)の時代、日本列島(れっとう)では病気がはやったり、大きな地震(じしん)がおこったりして、たくさんの人々が亡(な)くなりました。
 聖武天皇(しょうむてんのう)は、そうした災厄(さいやく)を仏教(ぶっきょう)の力でしずめ、安全で平和な国をつくろうとしました。そして、平城京(へいじょうきょう)に東大寺(とうだいじ)を建(た)て、大仏(だいぶつ)をつくる計画(けいかく)をたてました。
 東大寺(とうだいじ)の大仏(だいぶつ)は、銅(どう)でつくられていますが、表面(ひょうめん)には薄(うす)くのばした金(きん)がはられていました。この大仏(だいぶつ)をつくるには平城京(へいじょうきょう)の外で暮(く)らす人々の力も必要(ひつよう)だったため、行基(ぎょうき)という坊(ぼう)さんにも協力(きょうりょく)してもらいました。行基(ぎょうき)は、困(こま)った人々をたすけるために、いろんなところで橋をかけたり、ため池をつくったりしていたので、聖武天皇(しょうむてんのう)は日本全国から銅(どう)や金(きん)を集めることができました。



全国に役所(やくしょ)や寺ができる

❶古墳時代(こふんじだい)って?

 奈良時代(ならじだい)、日本列島(れっとう)はこまかい「国」に分けられていました。古代(こだい)の日本列島(れっとう)は、現代(げんだい)の47都道府県(とどうふけん)より少し細(こま)かい68カ国に分(わ)けられていました。たとえば、東京都(とうきょうと)なら武蔵国(むさしのくに)、愛知県(あいちけん)なら尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに)、大阪府(おおさかふ)なら摂津国(せっつのくに)や河内国(かわちのくに)といったように、国ごとに国衙(こくが)とよばれる役所がおかれました。国はさらに細(こま)かく郡(ぐん)に分(わ)けられ、その中心の役所は郡衙(ぐんが)とよびます。現代(げんだい)でいうなら、国衙(こくが)=市役所(しやくしょ)、郡衙(ぐんが)=町役場(まちやくば)・区役所(くやくしょ)といった感じですね。
 国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)を合わせて官衙(かんが)とよびますが、こういった官衙(かんが)の遺跡(いせき)では、役人が使った硯(すずり)や、墨(すみ)で字が書かれた土器(どき)、木簡(もっかん)などが出土(しゅつど)します。そして、聖武天皇(しょうむてんのう)は仏(ほとけ)の力を全国に広めようと、国ごとに寺(てら)をつくりました。男性の坊(ぼう)さんの寺(てら)を国分寺(こくぶんじ)、女性の坊さんの寺を国分尼寺(こくぶんにじ)といいます。寺(てら)の屋根(やね)には瓦(かわら)を使うことが多かったようです。瓦(かわら)の形や文様(もんよう)で、どこの影響(えいきょう)をうけた建物(たてもの)なのかがわかります。

もっと知りたい旧石器時代(旧石器時代)

◎奈良時代(ならじだい)は、74年続きました。

時代年表

平城京のお手本、長安城(中国・唐)

縄文海進(じょうもんかいしん):イメージ画像

 奈良時代(ならじだい)の中国では、唐(とう)という国が栄(さか)えていました。その都(みやこ)は、長安城(ちょうあんじょう/いまの陝西省西安市)とよばれ、平城京(へいじょうきょう)より はるかに大きいものでしたが、よく似(に)たところがあります。
 長安城(ちょうあんじょう)の北には皇帝(こうてい)の住む宮殿(きゅうでん)と役所(やくしょ)があり、幅150mもある朱雀大街(すじゃくおうがい)とよばれる道路が、宮殿(きゅうでん)の南からまっすぐに伸びています。道路の端(はし)には、いまの道路と同じように、ヤナギやエンジュなどの木が植(う)えられていました。平城京(へいじょうきょう)の広さは長安城(ちょうあんじょう)の 約1/4、朱雀大路(すじゃくおうじ)の道幅(みちはば)は朱雀大街(すじゃくたいがい)の半分にあたる74mです。
 さて、もうわかりましたね! 奈良時代(ならじだい)の日本は、唐(とう)の進んだ文化や技術(ぎじゅつ)を学ぶために、たくさんの人を唐(とう)に留学(りゅうがく)させていました。だから、平城京(へいじょうきょう)を設計(せっけい)するときには、長安城(ちょうあんじょう)をお手本にしたと考えるのが自然(しぜん)でしょう。こうした国際交流(こくさいこうりゅう)は、いまでは世界各国でみられますが、当時はとても勇気(ゆうき)のいることだったでしょう。どこかの国のいいところを真似(まね)て、自分たちの国づくりやまちづくり、社会のしくみづくりに役立てていたんですね。

奈良時代(ならじだい)にもあった給食(きゅうしょく)

奈良時代(ならじだい)にもあった給食(きゅうしょく
  

 「給食」といえば、多くの人は学校で食べるものを想像(そうぞう)すると思います。でも、それを食べる人から見れば、おなじ時間に、おなじメニューの食事が出てくるのが給食だといえそうです。いまのように学校で給食がでるようになったのは、明治時代(めいじじだい)以降(いこう)の話ですが、いまからおよそ1300年前の奈良時代(ならじだい)にも、給食を提供(ていきょう)する施設(しせつ)がありました。
 東大寺社協写経所(とうだいじしゃきょうしょ)というところです。ここでは、経典(きょうてん)を写(うつ)しとるために集まった写経生(しゃきょうせい)たちに、朝・晩(ばん)給食をだしていました。主食(しゅしょく)は米で、ときどき麺(めん)もでたようです。おかずには、漬物(つけもの)や茹(ゆ)で野菜(やさい)、汁物(しるもの)などがあり、いまの味噌(みそ)や醤油(しょうゆ)に似(に)た調味料(ちょうみりょう)がつきました。写経所(しゃきょうしょ)は寺にあって、仏教(ぶっきょう)の教(おし)えでは、動物(どうぶつ)を食べてはいけないので、肉や魚はでてきませんでした。ごちそうではありませんが、写経生(しゃきょうせい)たちは、十分な量(りょう)の食事を毎日食べていたのです。

古代(こだい)の「九九」と「あいうえお」

土偶(どぐう)と石棒(せきぼう):イメージ画像

 算数の授業(じゅぎょう)で習(なら)う「九九(くく)」を みなさんも一生懸命(いっしょうけんめい)覚(おぼ)えたと思います。小学校では 一の段(だん)から数えますよね。ところが、古代(こだい)の落書(らくが)きでは、なぜか九の段(だん)、しかも「九九八十一」と書かれたものが多いのです。なぜでしょう?これは何かのおまじないだったのではないか?と考えられています。
 国語の授業(じゅぎょう)では、みなさん、何から習いましたか?「あいうえお」ですね。「あいうえお」の歴史(れきし)はとても浅(あさ)く、江戸時代(えどじだい)までは「いろはにほへと ちりぬるを・・・」の いろは歌が、最初に習(なら)う文字でした。しかし、これも平安時代(へいあんじだい)からです。では、この時代の人たちは どうやって文字を覚(おぼ)えたのでしょうか?
 飛鳥時代(あすかじだい)や奈良時代(ならじだい)には、まだ「平仮名(ひらがな)」がありませんから、漢字(かんじ)一文字に一つの音をあてていました。これを「万葉仮名(まんようがな)」といいます。この万葉仮名(まんようがな)で「難波津に さくやこの花 冬ごもり 今は春べと さくやこの花」と書かれた歌木簡(うたもっかん)が出土(しゅつど)します。
 「九九」や「あいうえお」にも歴史(れきし)があるのは、おもしろいですね。

大人も夢中(むちゅう)?! ゲームいろいろ

貯蔵穴(ちょぞうけつ):イメージ画像

 テレビやインターネットはないけれど、奈良時代(ならじだい)にも、ゲームがありました。
 東大寺正倉院(とうだいじしょうそういん)に伝わる宝物(ほうもつ)の中には、聖武天皇(しょうむてんのう)や光明皇后(こうみょうてんのう)が愛用(あいよう)したと思われる「囲碁(いご)」や「双六(すごろく)」の盤(ばん)が残っています。囲碁盤(いごばん)は、いまのものとほとんど変わりませんが、双六盤(すごろくばん)は、いまとは違(ちが)ってサイコロを2つ使って駒(こま)を進めるものでした。これらの遊(あそ)び道具(どうぐ)は、遣唐使(けんとうし)が中国から持ち帰ったものと考えられています。
 平城宮跡(へいじょうきゅうあと)の発掘調査(はっくつちょうさ)でも、遊(あそ)びに使った道具(どうぐ)が見つかっています。これは土器(どき)に記号(きごう)をしるしたもので、「かりうち」という古代(こだい)のボードゲームに使われました。このゲームは朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わったと考えられ、お隣の大韓民国(だいかんみんこく)ではいまも「ユンノリ」という名でよばれる遊(あそ)びです。「かりうち」の盤面(ばんめん)は、秋田城跡(あきたじょうせき)や、いまの三重県(みえけん)にある斎宮跡(さいぐうあと)、新潟県(にいがたけん)にある八幡林遺跡(はちまんばやしかんがいせき)という古代(こだい)の役所の遺跡(いせき)からも出土(しゅつど)しています。
 はて? 奈良時代(ならじだい)の役人たちが仕事の合間に遊(あそ)んでいたのでしょうか。

終わらない 、平城京(へいじょうきょう)パズル

いろいろな墓(はか):イメージ画像

 平城宮(へいじょうきゅう)の、どこに、どんな役所(やくしょ)があったのか、残念(ざんねん)ながら地図(ちず)のようなものは残っていません。発掘調査(はっくつちょうさ)でみつかった建物(たてもの)の大きさなどから、どんなふうに使われていた施設(しせつ)なのかが推定(すいてい)されています。また、発掘調査(はっくつちょうさ)で見つかった土器(どき)や木簡(もっかん)に、役所(やくしょ)の名前が書いてある場合があります。そのようなヒントを手がかりに、ここが何の役所(やくしょ)だったのか?を推定(すいてい)しています。
 たとえば、宮内省(くないしょう)と書かれた土器(どき)は、天皇(てんのう)の世話(せわ)をする役所(やくしょ)で使われた食器(しょっき)と考えられています。役所(やくしょ)の名前は土器(どき)に書かれることが多いのですが、それはいったいなぜでしょう。平城宮(へいじょうきゅう)で仕事をする役人(やくにん)は、みなさんと同じように給食を食べていました。だから、給食用の食器(しょっき)に、使う場所の役所(やくしょ)の名前を書いて、他の役所(やくしょ)に持って行ったり、家に持って帰ったりすることを防止(ぼうし)したのではないか?という説(せつ)もあります。
 さまざまなヒントを手がかりに、まるでパズルのように役所(やくしょ)の場所は推定(すいてい)されているのです。発掘(はっくつ)していない場所や、発掘(はっくつ)したけれど、手がかりが得られなかった役所(やくしょ)がたくさんあるので、今日も終わらないパズルをしています。

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