渡来人(とらいじん)がやってきた!

❶渡来人(とらいじん)がやってきた!

 縄文時代(じょうもんじだい)の終わりごろ、地球(ちきゅう)が寒くなり、人口がどんどん減(へ)りました。寒いと、実のなる木や食べられる植物が減(へ)り、狩(か)りや漁(りょう)のえものも少なくなりました。自然のものをとって生きていた縄文人(じょうもんじん)は、「自分で食べ物を作ることができたらいいのになぁ」と思ったことでしょう。
 同じころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では米づくりがはじまっていましたが、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)も寒くなって米づくりがうまくいきません。「もっと暖(あたた)かいところに行きたいなぁ」と思ったことでしょう。そんなとき、ときどき魚をとりに朝鮮半島(ちょうせんはんとう)にきていた北部九州の縄文人(じょうもんじん)たちが、「こっちは暖(あたた)かいよ」と、言ったのかもしれません。
 海を渡(わた)ってやってきた人たちを「渡来人(とらいじん)」といいます。渡来人(とらいじん)たちは、地元の人たちのムラでいっしょに暮(く)らすようになりました。

米づくり

❷米づくり

 朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からきた渡来人(とらいじん)たちは、いっしょに暮(く)らすムラの人たちと、田んぼで米づくりをはじめました。米は長期間保存(ほぞん)ができるので、たくさん作って貯(た)めておけば安心です。日本列島(れっとう)における米づくりは、西日本を中心にどんどん広がっていきました。米づくりとともに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の土器(どき)や石器(せっき)も伝わってきました。
 しかし、火山の多い東日本や南部九州は、火山灰(かざんばい)が厚(あつ)く積(つ)もっていて、田んぼには向いていません。北海道(ほっかいどう)は寒すぎるし、沖縄(おきなわ)の島々はサンゴ礁(しょう)の島なので、田んぼには不向きです。そういう地域(ちいき)では、米づくりをしている地域(ちいき)と交流(こうりゅう)をもちながら、それぞれの地域(ちいき)の気候(きこう)や環境(かんきょう)にあったものをとり入れて工夫(くふう)し、作っていきました。

戦争(せんそう)がはじまった

❸戦争(せんそう)がはじまった

 弥生時代(やよいじだい)の中ごろに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から青銅器(せいどうき)や鉄器(てっき)、絹織物(きぬおりもの)、アクセサリーにするくだ玉やガラス玉など、新しいモノや技術(ぎじゅつ)が伝わってきました。青銅器(せいどうき)は、銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)などの武器(ぶき)でした。日本列島(れっとう)でも、ついに戦争(せんそう)がはじまったのです。
 争(あらそ)いの原因(げんいん)は、米や鉄(てつ)など、人々の生活を豊かにするものの奪(うば)いあいだと考えられています。争(あらそ)いあうなかで、地域(ちいき)の中心になる大きなムラがあらわれました。そういう地域(ちいき)のまとまりをクニとよびます。そして、特別に豪華(ごうか)な副葬品(ふくそうひん)をたくさんもった墓(はか)も出現(しゅつげん)したことで、クニの中心となる有力者(ゆうりょくしゃ)があらわれたことがわかります。

祈(いの)りと祭り、新しい文化

❹祈(いの)りと祭り、新しい文化

 米づくりがはじまると、縄文時代(じょうもんじだい)に使っていた祭りの品々は姿を消し、新しい儀式(ぎしき)や祭りが広まりました。墓(はか)も、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わった木棺(もっかん)や石棺(せっかん)に変わっていきました。米づくりとともに、大陸的な祭りの考え方が伝わり、神さまにお願いする内容も変わっていったのでしょう。
 弥生時代(やよいじだい)の祈(いの)りや祭りの道具の一つに銅鐸(どうたく)があります。銅鐸(どうたく)は、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)にあった青銅製(せいどうせい)の小さな鈴(すず)を弥生人(やよいじん)が祭りの道具として作りかえたものです。祭りの時、きれいにひびく音を鳴らして、神さまによろこんでもらおうとしたのでしょう。

国際社会(こくさいしゃかい)の仲間(なかま)入り

❺国際社会(こくさいしゃかい)の仲間(なかま)入り

 北部九州の有力者(ゆうりょくしゃ)たちは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を通して、中国の漢(かん)に使者(ししゃ)を送り、さまざまな品物をもらったりしていました。そのころの中国では、日本列島(れっとう)は「(わ)」、日本列島(れっとう)に住む人々は「倭人(わじん)」と呼ばれていました。弥生時代(やよいじだい)は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国との交流(こうりゅう)が本格的(ほんかくてき)にはじまった時代(じだい)です。北部九州を中心とする西日本では、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国の品物が出土(しゅつど)します。
 2世紀の終わりごろ、(わ)のクニグニの間で戦争がつづいたので、クニグニの共通の女王になった卑弥呼(ひみこ)は、中国の魏(ぎ)の皇帝(こうてい)に使いを送り、たくさんの品物を土産(みやげ)にもらったことが、中国の歴史書(れきししょ)『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)に書かれています。
 しかし、卑弥呼(ひみこ)という女王がどこにいたのかは、まだわかっていません。

もっと知りたい弥生時代(弥生時代)

◎弥生時代(やよいじだい)は、4つの時期(じき)にわけられます。およそ1000年続きました。

時代年表

縄文人(じょうもんじん)と渡来人(とらいじん)

縄文人(じょうもんじん)と渡来人(とらいじん):イメージ画像

 弥生時代(やよいじだい)の墓地(ぼち)を発掘(はっくつ)すると、縄文人(じょうもんじん)とは違う顔つき体つきの人骨(じんこつ)がみつかります。その人たちは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から移住(いじゅう)してきた渡来人(とらいじん)、またはその子孫(しそん)だと考えられています。
 渡来人(とらいじん)たちは、北部九州や西日本の米づくりに適(てき)した地域(ちいき)にやってきて暮(く)らすようになりました。北海道(ほっかいどう)や東北(とうほく)地方、南九州や沖縄(おきなわ)など、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から遠かったり、米づくりに適(てき)していない地域(ちいき)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からの渡来人(とらいじん)はあまり来ないので、弥生時代(やよいじだい)になっても、人々は縄文人(じょうもんじん)と同じような顔つき体つきでした。だから、弥生時代(やよいじだい)の日本列島(れっとう)には、「縄文系(じょうもんけい)」と「渡来系(とらいけい)」の弥生人(やよいじん)がいたのです。
 いまの日本人にも、その特徴(とくちょう)のなごりがみられます。あなたはどちらですか?

<参考文献>松下孝幸『日本人と弥生人―その謎の関係(ルーツ)を形質人類学が明かす』祥伝社1994年

北海道(ほっかいどう)のようす〜続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)

北海道(ほっかいどう)/続 縄文時代(ぞくじょうもんじだい):イメージ画像

 弥生時代(やよいじだい)の特徴(とくちょう)として、米づくりがはじまったことがあげられますが、日本列島(れっとう)の全地域(ぜんちいき)で一斉(いっせい)に伝わったわけではありません。気候(きこう)や環境(かんきょう)など、米づくりに適(てき)した環境(かんきょう)の土地から、しだいに広まっていきました。
 北海道(ほっかいどう)は、米づくりに適(てき)さなかったというより、むしろ、豊富な海産物がとれたので、すぐに米を作る必要がなかったのかもしれません。いずれにしても、弥生時代(やよいじだい)になっても、縄文時代(じょうもんじだい)と同じように狩(か)りや漁(りょう)、植物の採集(さいしゅう)を基本とする生活をしていました。そうしたことから、北海道(ほっかいどう)では「弥生時代(やよいじだい)」と「古墳時代(こふんじだい)」にあたる時代(じだい)のことを「続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)」といいます。
 弥生時代(やよいじだい)と重なるその前半期、北海道(ほっかいどう)の南部は、東北(とうほく)地方の弥生文化(やよいぶんか)の影響(えいきょう)を受けた「恵山文化(えさんぶんか)」が広まります。中央部では、石狩川(いしかりがわ)や夕張川(ゆうばりがわ)でサケの漁(りょう)が盛(さか)んでした。東部や北部では、海の近くでムラが増え、海で漁(りょう)をして暮(く)らしていたと考えられます。サケやマス、スズキ、コイ、カジキマグロなどの魚のほか、アザラシやオットセイなどの海獣(かいじゅう)類も捕(と)って食べていました。サケは、食べるだけでなく、皮でクツや衣服をつくることができます。もちろん、森の植物も食べていて、たくさんの石皿(いしざら)が出土(しゅつど)します。地域(ちいき)によっては、ヒエやソバ、オオムギなどが栽培(さいばい)されました。
 本州以南の地域(ちいき)と盛んに交流(こうりゅう)をしており、弥生文化(やよいぶんか)のくだ玉や沖縄(おきなわ)周辺でしかとれない貝でつくったうで輪(わ)などが出土(しゅつど)しています。また、北方のサハリンやカムチャッカ半島の人々とも交流(こうりゅう)し、他の地域(ちいき)ではみられない、珍(めずら)しい品物が出土(しゅつど)しています。南へ北へと活発(かっぱつ)に行き来しながら、独自(どくじ)の祭りをおこない、独自(どくじ)の埋葬(まいそう)の文化をもっていました。(「行ってみよう北海道(ほっかいどう)」をみてね)

琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)のようす〜独自(どくじ)の文化

沖縄(おきなわ)/弥生~平安並行時代(やよい~へいあんへいこうじだい):イメージ画像

 鹿児島県(かごしまけん)の南部、奄美諸島(あまみしょとう)から沖縄県(おきなわけん)の与那国島(よなぐにじま)にかけて、約800kmにわたって多くの島が連(つら)なっています。これを琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)とよびます。北部の文化は「北琉球文化圏(きたりゅうきゅうぶんかけん)」とよばれ、鹿児島県(かごしまけん)の奄美諸島(あまみしょとう)と沖縄諸島(おきなわしょとう)をさし、南部は「南琉球文化圏(みなみりゅうきゅうぶんかけん)」とよばれ、宮古島(みやこじま)や石垣島(いしがきじま)のある先島諸島(さきしましょとう)をさします。沖縄(おきなわ)には本州・四国・九州の弥生時代(やよいじだい)から平安時代(へいあんじだい)までの時期に、ふたつの文化が存在していたのです。
 「北琉球文化圏(きたりゅうきゅうぶんかけん)」は、九州の弥生文化(やよいぶんか)とわずかに交流がありますが、「南琉球文化圏(みなみりゅうきゅうぶんかけん)」には交流の証拠(しょうこ)は見つかっていません。
 これらの島々では、食料として、特に魚や貝、海獣(かいじゅう)類が豊富です。貝塚(かいづか)では、ブダイ、ベラ、ハタなどサンゴ礁のラグーン(内海)にいる魚や貝のほか、イルカ、ジュゴン、海ガメなどを食べていたことがわかります。また、豊富(ほうふ)な貝を利用して、斧(おの)やナイフなど、さまざまな道具をつくりました。ビーズやうで輪など、アクセサリーも貝でつくりました。南のあたたかい海でしか採(と)れない貝で作ったうで輪は、北部九州の人々が欲(ほ)しがる貴重品(きちょうひん)で、九州の弥生人(やよいじん)は、わざわざ海をこえてやって来て、うで輪の材料となるゴホウラやイモガイを手に入れていたことがわかっています。
 さらに、亡(な)くなった人を岩陰(いわかげ)などにおく風葬(ふうそう)をおこなうほか、遺体(いたい)を平たいサンゴで囲(かこ)んだ独特(どくとく)の墓(はか)をつくりました。埋葬(まいそう)された人のなかには、さまざまな貝のアクセサリーをつけた人がいたことから、琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)ではサンゴ礁(しょう)と貝で、独自(どくじ)の文化が生まれたことがわかります。

戦争(せんそう)のこと

戦争のこと:イメージ画像

 朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から初めて伝わってきた青銅器(せいどうき)は、(ほこ)・戈(か)・剣(けん)という武器でした。墓地(ぼち)を発掘(はっくつ)すると、銅剣や銅矛(どうほこ)の先や、石の矢じりが骨に刺(さ)さったままの人骨(じんこつ)がみつかっています。また、鋭(するど)い刃で切られた跡(あと)のある人骨(じんこつ)が出土(しゅつど)しており、殺しあいがおこなわれたことがわかります。人々は、なぜ争(あらそ)うようになったのでしょうか。
 一つの理由は、田んぼで米づくりをはじめたことです。米は長期間保存(ほぞん)ができるので、少しでもたくさんつくって貯(た)めておけば、食べ物の心配がなくなります。米は誰もが欲しがるので、物々交換(ぶつぶつこうかん)で自分の欲しいものを手に入れることができます。だから、たくさん米をつくりたいと思うようになりました。新しく田んぼをつくるのは大変なので、少しでもいい土地がほしいし、田んぼに引く水も確保(かくほ)しなくてはいけません。田んぼを広げても、そこで働く人がいないと米がつくれません。だから、人間も奪(うば)いあいになったでしょう。また、堅(かた)い土地でも耕(たがや)せるように、鉄(てつ)の道具も欲しかったでしょうから、鉄器(てっき)も奪(うば)いあいになったでしょう。
 米も鉄器(てっき)も、人々を幸せにしてくれるものだったからこそ、みんなが欲しがり、その結果、奪いあいになって争(あらそ)いがおきる。いまも昔も変わりませんね。

青銅器(せいどうき)の祭り

青銅器の祭り:イメージ画像

 銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)、銅剣(どうけん)は、最初は武器(ぶき)として戦いに使われました。しかし、やがて鉄製(てっせい)の武器(ぶき)が登場(とうじょう)すると、青銅製(せいどうせい)の武器(ぶき)はだんだん大きくなり、刃(は)もつけず、儀式(ぎしき)や祭りの道具になりました。銅鐸(どうたく)は、音を鳴(な)らす青銅製(せいどうせい)のベルです。儀式(ぎしき)や祭りで使われるため、ただ音を鳴(な)らす目的だけでなく、表面にシカやトンボ、狩りのようすが描(えが)かれるなど、いろいろな装飾(そうしょく)がほどこされています。青銅製(せいどうせい)の武器(ぶき)と同じように、だんだん大きくなっていきました。
 銅鐸(どうたく)も、大型化した青銅製(せいどうせい)の武器も、なぜか最後には、ムラから離(はな)れた山のなかに埋(う)められました。これらの青銅器(せいどうき)で、どんな祭りをしたのか、何を祈(いの)ったのか、そしてなぜ最後には埋(う)めてしまうのか、まだよくわかっていません。

交流(こうりゅう)

交 流:イメージ画像

 弥生時代(やよいじだい)には、船を使って遠いところと行き来することが、ますます盛(さか)んになりました。北部九州の人々は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)と行き来して、鉄の素材や鉄器(てっき)、中国の銅鏡(どうきょう)などを手に入れました。北部九州には、そういう大陸の珍(めずら)しいものがいろいろあるので、日本列島(れっとう)以外の地域(ちいき)からも人々がやってきて、物々交換(ぶつぶつこうかん)をしました。
 交換(こうかん)するものとして、山陰(さんいん)地方の人たちは玉を、中部・南部九州の人々は南西諸島(なんせいしょとう)で手に入れたゴホウラやイモガイなど、うで輪の材料となる貴重(きちょう)な貝を、北部九州にもっていきました。北海道(ほっかいどう)の人々は、東北(とうほく)地方やサハリン、カラフトなどの人たちから珍(めずら)しいものを手に入れました。東北(とうほく)地方や関東(かんとう)地方の人たちも、北の方の人たちや西日本の人たちと交流(こうりゅう)をもっていました。
 このように、人々が活発(かっぱつ)に移動(いどう)していることは、遺跡(いせき)の出土品(しゅつどひん)でわかります。モノが、人の動きを教えてくれます。これが、考古学(こうこがく)のおもしろいところです。

個性(こせい)ゆたかな墓(はか)

個性(こせい)ゆたかな墓(はか):イメージ画像

 弥生時代(やよいじだい)には、米づくりとともに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から縄文時代(じょうもんじだい)にはなかった形の墓(はか)が伝わってきて、米づくりとともに西日本に広まります。遺体(いたい)をいれる棺(ひつぎ)には、木棺(もっかん)と石棺(せっかん)があります。棺(ひつぎ)を使わず、ただ地面に穴を掘(ほ)って、遺体を埋めるだけの土坑墓(どこうぼ)という墓(はか)は、縄文時代(じょうもんじだい)から続いています。
 弥生時代(やよいじだい)の初めごろ、九州西北部には、石棺(せっかん)や土坑墓(どこうぼ)の上に大きな石を置(お)いて目印にする、支石墓(しせきぼ)がつくられます。支石墓(しせきぼ)は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)南西部に多く、九州にやってきた渡来人(とらいじん)がつくった墓(はか)だったかもしれません。本州や四国には、米づくりとともに、四角い範囲(はんい)を溝(みぞ)でくぎって、その中に人を埋葬(まいそう)する方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)がつくられます。方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は、弥生時代(やよいじだい)の初めから古墳時代(こふんじだい)の初めまで、つくられています。
 中期(ちゅうき)になると、北部九州では大きな土器(どき)を2つあわせて棺(ひつぎ)にする甕棺墓(かめかんぼ)が流行(りゅうこう)します。甕棺墓(かめかんぼ)は、北部九州だけにみられる独特(どくとく)の墓(はか)ですが、後期(こうき)になると数が減(へ)って、木棺(もっかん)や石棺(せっかん)が増えていきます。また、このころから有力者(ゆうりょくしゃ)の墓(はか)として、地上に土を盛(も)りあげた墓(はか)があらわれます。弥生時代(やよいじだい)の盛(も)り土(ど)をもつ墓(はか)は、古墳時代(こふんじだい)の古墳(こふん)とは区別して、墳丘墓(ふんきゅうぼ)とよびます。
 後期(こうき)になると、山陰(さんいん)地方では、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)という変わった形の墓(はか)がつくられ、終末期(しゅうまつき)には北陸(ほくりく)地方にも広まります。地域(ちいき)によって、それぞれ特徴(とくちょう)のある墓(はか)や死者を葬(ほうむ)る儀式(ぎしき)がありました。

卑弥呼(ひみこ)のこと

卑弥呼(ひみこ)のこと:イメージ画像

 『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)によると、戦争を続けていた(わ)のクニグニの共通の女王にえらばれた卑弥呼(ひみこ)は、「一人の女子」だったと書かれています。つまり、どこかの王だったわけではなく、ふつうの民(たみ)が いきなり30ほどのクニがあつまった(わ)の女王になったのです。女王は、(わ)の都を邪馬台国(やまたいこく)に置いた、と倭人伝(わじんでん)に書かれています。でも、どうして「一人の女子」がいきなり女王になれたのでしょうか。
 『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)によると、卑弥呼(ひみこ)は「鬼道(きどう)」が上手で、多くの人々の心をつかんだそうです。「鬼道(きどう」が何なのかはよくわかりませんが、信仰(しんこう)にかかわることではないかと思われます。政治(せいじ)や武力(ぶりょく)で解決(かいけつ)できない時には、そういう「鬼道(きどう)」の力で、うまくまとめることができたのではないでしょうか。
 卑弥呼(ひみこ)の「宮室(きゅうしつ)」には、「楼観(ろうかん)」という中国の貴族(きぞく)の家にあるような高い建物(たてもの)があり、厳重(げんじゅう)に塀(へい)でかこまれて、入り口には武器(ぶき)をもった兵士がいつも見張(みは)っていたと書いてあります。卑弥呼(ひみこ)がどこにいたのか、邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったのかは、まだわかっていません。北部九州にいたという説(せつ)と奈良県(ならけん)にいたという説(せつ)があって、いまも論争(ろんそう)が続いています。

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