遺跡(いせき)は、呉羽(くれは)山から続く太閤山(たいこうやま)丘陵(きょうりょう)の端(はし)っこにあります。1969年に道路をつくる工事の前に発掘調査(はっくつちょうさ)が行われ、まわりを四角くめぐらす溝(みぞ)をもつ墓(はか)である方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)4基(き)と、四角い墓穴(はかあな)だけの土坑墓(どこうぼ)4基(き)がみつかりました。時期は、弥生時代後期(やよいじだいこうき)です。方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は、国内でも西日本に多い墓(はか)の形で、この遺跡(いせき)での発見は、今のところ日本でいちばん北にあります。富山県(とやまけん)は、貴重(きちょう)なお墓(はか)が発見されたので、道路をつくるルートを変えて、遺跡(いせき)を保存(ほぞん)しました。また、土坑墓(どこうぼ)からは、ヒスイのまが玉・くだ玉・鉄の矢じりなどの副葬品(ふくそうひん)がみつかっています。
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近景
発掘調査時のようす
発掘調査時のようす
現在の様子 | 現在は、射水市立太閤山小学校の裏にある山林となっています。ふもとと山林には、案内板があります |
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