呉羽山(くれはやま)の南側の丘(おか)の上にある「王塚・千坊山遺跡群(おうづか・せんぼうやまいせきぐん)」は、複数(ふくすう)の遺跡(いせき)をまとめたよび名です。
弥生時代終末期(やよいいじだいしゅうまつき)のムラである千坊山遺跡(せんぼうやまいせき)のほか、墓(はか)である富崎墳墓群(とみさきふんぼぐん)、六治古塚墳墓(ろくじこづかふんぼ)・四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)、向野塚墳墓(むこうのづかふんぼ)・前方後方型墳丘墓(ぜんぽうこうほうがたふんきゅうぼ)、古墳時代前期(こふんじだいぜんき)の王塚古墳(おうづかこふん)、勅使塚古墳(ちょくしづかこふん)、富崎千里古墳群(とみさきちさとこふんぐん)・前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)と、墓(はか)の移りかわりをたどることができます。
墓(はか)とその墓(はか)をつくったとみられる人々のムラの両方があるのは、国内でも珍(めずら)しいことです。とくに、日本海側で特徴(とくちょう)的な四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)や前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)の存在(そんざい)は、ヤマト政権(せいけん)とはちがう文化をもつ勢力(せいりょく)のあり方を示すものとして、日本の歴史(れきし)を考えるうえで重要(じゅうよう)な遺跡群(いせきぐん)と言えます。
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発掘調査時ようす(向野塚墳墓)
発掘調査時のようす(富崎墳墓群)
遠景(千坊山遺跡群)
現在の様子 | 現在は、点在していますが、遺跡はいずれも案内板のある山林に位置します。王塚古墳(おうづかこふん)は整備(せいび)され、全体が見やすくなっています |
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