- 遺跡数12,535か所
- 面 積5,173㎢
愛知県(あいちけん)は、大昔の国のよび方では、尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに)に分かれます。さらに三河国(みかわのくに)は、古墳時代後期(こふんじだいこうき)には「穂(ほ)の国=東三河(ひがしみかわ(豊川流域(とよがわりゅういき))」と、「御河国(みかわのくに)=西三河(にしみかわ)(矢作(やはぎ)川流域)」に分かれていたようです。
尾張国(おわりのくに)は西側の約3分の2が木曽川(きそがわ)によってつくられた広大な濃尾平野(のうびへいや)で、東は丘(おか)と台地(だいち)、そして南の知多半島(ちたはんとう)からなっています。西三河(にしみかわ)と東三河(ひがしみかわ)は北西側の約半分が山間部(さんかんぶ)で、ここから流れ出す矢作川(やはぎがわ)と豊川(とよがわ)の下流(かりゅう)に平野がつくられています。「せともの」で知られるように、愛知県(あいちけん)は今もなお陶磁器(とうじき)や瓦(かわら)などを窯(かま)で焼いてつくる窯業(ようぎょう)生産が盛(さか)んです。それゆえ、県全体での遺跡(いせき)の数の半数以上は、古墳時代(こふんじだい)から江戸時代(えどじだい)の窯跡(かまあと)です。古墳(こふん)は、台地や丘に多くつくられており、名古屋市(なごやし)にある断夫山古墳(だんぷさんこふん)は、全長150mの大型の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。弥生時代(やよいじだい)には、濃尾平野(のうびへいや)まで、いち早く米づくりが伝わったことで知られており、朝日遺跡(あさひいせき)など大きなムラがたくさんあります。日本列島(れっとう)のほぼ中央になることから、東と西の文化が入り交じるところでもあります。
赤彩絵画土器(せきさいかいがどき)一色青海遺跡(いっしきあおかいいせき)
稲沢市(いなざわし)にある弥生時代中期(やよいじだいちゅうき)のムラである一色青海遺跡(いっしきあおかいいせき)からみつかった、小型の筒状(つつじょう)の容器です。その外面には6頭のシカが縦(たて)に描(えが)かれています。よく見ると、まず細いヘラのような道具を使って土器(どき)の表面に線をほりこんだあとに、筆(ふで)のような道具を使って赤い塗料(とりょう)でその線の上をなぞっていることがわかります。このように塗料(とりょう)を使ってシカの絵を描(えが)いた例は、弥生時代(やよいじだい)にはこれを含めて、全国でたった2例しかありません。
人面文土器(じんめんもんどき)亀塚遺跡(かめづかいせき) 国指定重要文化財
愛知県(あいちけん)内では弥生時代(やよいじだい)の終わりごろから古墳時代(こふんじだい)の初めごろにかけて、土器(どき)や木製品(もくせいひん)の表面に人の顔を描(えが)くことがさかんにおこなわれました。そういった「人面文土器(どき)」が特にたくさんみつかる地域(ちいき)が、安城市(あんじょうし)の鹿乗川流域遺跡群(かのりがわりゅういきいせきぐん)で、そのなかにある亀塚遺跡(かめづかいせき)からは、完全な形の壺(つぼ)に人の顔が描(えが)かれていました。イヤリングをし、ヒゲをはやした顔の、両眼の上下にたくさんに線が引かれていますが、これはイレズミのあとだと考えられています。
石製品(せきせいひん)東之宮古墳(ひがしのみやこふん) 国指定重要文化財
東之宮古墳(ひがしのみやこふん)からは、合子(ごうす)2点、鍬形石(くわがたいし)1点、車輪石(しゃりんせき)1点、石釧(いしくしろ)3点の、合計7点の石製品(せきせいひん)がみつかっています。これらはいずれも地元では「土岐石(ときいし)」と呼ばれる、岐阜県瑞浪市(ぎふけんみずなみし)付近の土岐川(ときがわ)でとれる緑色に白い群雲状(むらくもじょう)のもようが入った美しい石が用いられています。合子(ごうす)は、木製品(もくせいひん)の蓋付(ふたつ)きの器を石製品(せきせいひん)でまねて作ったもの、鍬形石(くわがたいし)や車輪石(しゃりんせき)はもともと貝で作っていたうで輪(わ)を石製品(せきせいひん)でまねたものとされています。