- 遺跡数17,344か所
- 面 積4,612㎢
京都府(きょうとふ)は南北約120㎞ありますが、江戸時代(えどじだい)までは、北から①丹後(たんご)、②丹波(たんば)、③山城(やましろ)の3つの国に分かれていました。①丹後(たんご)は、日本海(にほんかい)に面しており、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国大陸(ちゅうごくたいりく)に通じる海の玄関口(げんかんぐち)です。②丹波(たんば)は、丹後(たんご)と近畿(きんき)地方の中央や瀬戸内(せとうち)を結ぶ道のとちゅうにあり、③山城(やましろ)は、近畿(きんき)地方中央部の一部です。それぞれの地域(ちいき)の間の交流には、山城(やましろ)では木津川(きづがわ)、丹波(たんば)では由良川(ゆらがわ)や保津川(ほづがわ)・大堰川(おおいがわ)など、川をつかった交通が重要でした。
縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(いせき)としては、日本海側では珍しい貝塚(かいづか)である浜詰遺跡(はまづめいせき)がよく知られています。弥生時代(やよいじだい)は、扇谷遺跡(おうぎだにいせき)などの遺跡(いせき)から、弥生文化(やよいぶんか)が、日本海(にほんかい)を通じて伝わってきたことを示しています。また、弥生時代(やよいじだい)の終わりごろには、赤坂今井墳墓(あかさかいまいふんぼ)など、丹後(たんご)に有力な墳墓(ふんぼ)がつくられます。古墳時代(こふんじだい)には、丹後(たんご)では網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)など、海をのぞむ巨大古墳(きょだいこふん)が次々と作られることが、最も大きな特徴(とくちょう)です。山城(やましろ)でも、乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)や久津川古墳群(くつかわこふんぐん)など、古くから知られ、日本の歴史(れきし)を考える上で、欠かせない古墳(こふん)が多く存在(そんざい)することも京都府(きょうとふ)の大きな特徴(とくちょう)です。
遺跡
ガラスの腕輪(うでわ)大風呂南1号墓(おおぶろみなみ1ごうぼ) 国指定重要文化財
弥生時代(やよいじだい)から変わらないライトブルーの輝(かがや)きをはなつ、美しいガラスの腕輪(うでわ)です。最大(さいだい)の直径9.7㎝、重さは168.1gあり、断面(だんめん)は五角形をしています。日本では、ガラスの腕輪(うでわ)は4か所の遺跡(いせき)から出土(しゅつど)していますが、完全な形をしているのは、大風呂南1号墓(おおぶろみなみ1ごうぼ)のものだけです。ガラスの成分(せいぶん)から、中国大陸(ちゅうごくたいりく)から日本海をこえてもちこまれたと考えられています。海の色にも似たこのガラスの腕輪(うでわ)は、海外との交易(こうえき)をおこなったとされる有力者(ゆうりょくしゃ)の墓(はか)に納(おさ)められていました。
「青龍(せいりゅう)三年」の年号(ねんごう)が記された銅鏡(どうきょう)大田南5号墳(おおたみなみ5ごうふん) 国指定重要文化財
日本には、現在13枚(まい)の古代(こだい)中国の年号(ねんごう)が書かれた銅鏡(どうきょう)が知られていますが、「青龍(せいりゅう)三年」(235)という年号(ねんごう)は、その中で最も古い年号(ねんごう)です。倭国(わこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が中国の魏(ぎ)に使いをおくる前の年号(ねんごう)ですが、記念すべき特別な年号(ねんごう)であったのかもしれません。同じ年号(ねんごう)の銅鏡(どうきょう)は、他に2枚(1枚は出土地(しゅつどち)不明)ありますが、出土(しゅつど)した古墳(こふん)は、いずれもちいさな古墳(こふん)です。この銅鏡(どうきょう)のもようは、古代(こだい)の中国の人が考えた宇宙(うちゅう)そのもので、中央の四角は天を表し、柱などによって支えられています。まわりには、東西南北をまもる青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)の4つの神の姿(すがた)などがあらわされ、まじないやまつりの道具としてとても大事にされました。写真提供:京丹後市教育委員会
龍(りゅう)の飾(かざ)りがある刀の持ち手の飾(かざ)り湯舟坂2号墳(ゆぶねさか2ごうふん) 国指定重要文化財
大刀(たち)は、6世紀後半に作られた古墳(こふん)から出土(しゅつど)したもので、持ち手の部分が失われていますが、全長は122センチと考えられます。持ち手の柄(え)の頭の部分に円形の飾(かざ)りがあることから、環頭太刀(かんとうたち)とよばれています。円形の飾(かざ)りには、向かい合って玉をくわえる大小2組の龍(りゅう)が表現されています。2組の龍(りゅう)を表現したものはとても珍しく、その他の出土品(しゅつどひん)とともに、重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されています。写真提供:京丹後市教育委員会
「景初(けいしょ)四年」(240年)の年号が記された銅鏡(どうきょう)広峯15号墳(ひろみね15ごうふん) 国指定重要文化財
有名な『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)には、「景初(けいしょ)三年、倭の女王卑弥呼(ひみこ)は中国の魏(ぎ)王朝に使者を送った。魏(ぎ)の皇帝(こうてい)は、おみやげとして銅鏡(どうきょう)100枚などの品々を卑弥呼(ひみこ)に与えた」と書かれています。ところが、福知山市(ふくちやまし)の広峯(ひろみね)15号墳(ふん)でみつかったこの鏡(かがみ)には、「景初(けいしょ)四年に作った」と記(しる)されていました。じつは、中国の年号(ねんごう)である「景初(けいしょ)」は三年で終わってしまったため、「景初(けいしょ)四年」は、実際(じっさい)にはありえない年号なのです。この鏡(かがみ)は、一体どこで誰が作ったのか。見つかって30年以上たった今でも謎(なぞ)のままです。
貝製の腕輪(うでわ)をまねた銅製品(どうせいひん)芝ヶ原古墳(しばがはらこふん) 国指定重要文化財
芝ヶ原古墳(しばがはらこふん)は、古墳時代(こふんじだい)の初めごろにつくられた前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)です。古墳(こふん)からは、銅鏡(どうきょう)やガラスの玉、ヒスイのまが玉など貴重(きちょう)な副葬品(ふくそうひん)がみつかっています。この腕輪形銅製品(うでわがたどうせいひん)は、奄美群島(あまみぐんとう)より南で採れる貝で作った腕輪(うでわ)や、それをまねて石で作った腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)がもとになったアクセサリーです。ただ、実際(じっさい)には身に着(つ)けていたものではなく、古墳(こふん)に埋葬(まいそう)された人の権威(けんい)を示すものという意味合いが大きかったと考えられています。