中妻貝塚(なかつまかいづか)は、台地の端(はし)につくられた、縄文時代後期(じょうも
んじだいこうき)から晩期(ばんき)にかけての貝塚(かいづか)です。貝塚(かいづか)を真上(まうえ)から見ると、馬の足の裏に取り付ける馬蹄(ばてい)の形に似ていることから、馬蹄形貝塚(ばていけいかいづか)に分類されます。貝塚(かいづか)は、縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)の前半から晩期(ばんき)の前半という1,000年くらいの間に、縄文人(じょうもんじん)たちが台地の上にあるくぼ地に向かって、灰(はい)や動物・魚などの骨(ほね)とともに、ヤマトシジミを中心とする貝ガラを捨(す)てたことによってつくられました。この貝塚(かいづか)で注目されるのは、縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)の多数合葬墓(たすうがっそうぼ)です。直径2mの丸い穴の中から100体近くの人骨が集められて埋葬(まいそう)されていました。これらの人骨は、縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)のムラのなりたちや家族関係(かぞくかんけい)などを明らかにするうえで、大変貴重(きちょう)な資料(しりょう)です。また、中妻貝塚(なかづまかいづか)からは、製塩土器(せいえんどき)やイモガイを加工してアクセサリーのビーズとした貝製品の完成品・材料・作りかけのものが出土(しゅつど)していることから、中妻貝塚(なかづまかいづか)に住んでいた縄文人(じょうもんじん)たちは、海水から塩を作ったり、貝玉(かいだま)を作ったりしていたことが分かっています。
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