栃木県(とちぎけん)では、考古学(こうこがく)の研究の歴史として注目される発掘調査(はっくつちょうさ)が2つあります。1つは、徳川光圀(とくがわみつくに)による侍塚古墳(さむらいづかこふん)の調査(ちょうさ)です。そして、もう1つが1886(明治19)年、日本の考古学(こうこがく)の創始者(そうししゃ)の一人である坪井正五郎(つぼいしょうごろう)による足利(あしかが)公園古墳(こふん)群の調査(ちょうさ)です。古墳群(こふんぐん)は、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)1基(き)と、円墳(えんぷん)9基(き)があり、円墳(えんぷん)の1号墳(直径16m)と2号墳(直径22m)、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)のある3号墳(ふん)が、市の史跡(しせき)に指定(してい)されています。坪井が調査をした当時、このような小さな古墳(こふん)は、副葬品(ふくそうひん)は少ないし、全国いたる所にあって珍しくないと思われていたため、調査(ちょうさ)をすることはありませんでした。しかし坪井は、これらの古墳(こふん)をていねいに発掘調査(はっくつちょうさ)し、くわしい報告書(ほうこくしょ)をだしました。日本で考古学の研究が始まってまもない時代のことです。そこには、古墳(こふん)の発掘調査(はっくつちょうさ)への情熱(じょうねつ)があふれています。
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全景
調査のようす(M号古墳)
古墳群の配置図