聖武天皇というと奈良の大仏を作ったことで有名な奈良時代の天皇であり、奈良時代の首都は平城京でした。しかしこの天皇は、740年から745年までの約5年間は平城京を離れ、そのほかの場所に三つの新しい都を営みました。これが、恭仁宮(くにのみや。京都府木津川市)、難波宮(なにわのみや。大阪府大阪市)、紫香楽宮(しがらきのみや。滋賀県甲賀市)です。聖武天皇がどのような考えでこういうことをやったのかについてはいろいろな説がありますが、彼が平城京以外の場所に複数の都を作って、それぞれに役割分担をさせようとしたことは確かなようです。恭仁宮は、京都府木津川市の加茂という小さな盆地の中で、木津川の北側に造られました。天皇が住む宮のすぐ南側に木津川という大きな川が流れていたのですが、このような形の都はそれまではまったく見られないものでした。恭仁宮には、重要な儀式の中心となる朝堂院(ちょうどういん)や、その中心建物である大極殿(だいごくでん)、さらには天皇の居所となる内裏(だいり)などの施設が整備されていました。ただ、恭仁宮では、本来でしたら大きな塀であるはずの宮の周囲の区画が簡単な塀で済まされているところがあったりして、その建設はかなりの突貫工事だったようです。恭仁宮は天皇の宮殿や役所のある区画のことですが、その周囲には一般の庶民などが住む都市の部分が存在したはずで、これが恭仁京(くにきょう)と呼ばれています。しかし、残念ながら、恭仁京の正確な形はまだ調査が進んでおらず、よくわかっていません。ただ、恭仁宮のある盆地は一般住民の住む恭仁京を入れるには狭すぎますので、恭仁京の一部はそこから山を隔てた西側の平野(京都府木津川市木津)に造られていたと考えられます。この平野の場所は木津川が流れており、そこには川の港がありました。瀬戸内海を通って運ばれてきた物資は大阪湾から淀川をさかのぼり、そこから木津川にはいると、最終的にここの港に到着するのです。また、奈良から北へ向かって北陸地方に向かう街道も、ここを通っていました。つまり恭仁京は、水陸の交通の中心地だったのです。なお、745年に聖武天皇が平城京に戻ると、恭仁京は都であることをやめ、その施設は山背国(やましろのくに。京都府南部。のちに山城国と改める)の国分寺に造り替えられ、恭仁宮大極殿が国分寺の金堂(こんどう。寺の中心となる建物)に改造されるとともに、その側には大きな塔が建てられました。
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現在の様子 | 恭仁宮跡(山城国分寺跡)、神雄寺跡が国指定史跡となっている。 |
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