京都府宇治市は、古代から奈良と北陸地方を結ぶ重要な街道の中間地点として栄えました。宇治川の右岸(東側)に重要な古代の遺跡が集まっていることは、そのことを示しています。隼上り窯跡群は、この場所につくられた飛鳥時代(7世紀前半)の窯です。発掘調査によって、4つの窯の跡が発見されました。注目されるのは、この窯が須恵器(すえき)と瓦の両方を焼いていたことです。一般的には須恵器は須恵器窯で、また瓦は瓦窯で焼かれますので、その両方を焼くというのは珍しいことです。瓦というのはもちろん、お寺などの建物の屋根に葺いて雨が漏らないようにするものですが、屋根の端の軒の部分には「軒瓦(のきがわら)」という、綺麗な模様を刻んだ瓦を使います。軒瓦には、円形をした軒丸瓦と、わずかに湾曲した軒平瓦があります。この軒瓦の模様を比べることによって、ある窯で作られた瓦がどこのお寺に運ばれて使われたのかがわかるのです。そういう目でこの隼上り窯跡の瓦をみると、それはなんと90kmも離れた奈良県の飛鳥の豊浦寺(とゆらでら)や、17kmも離れた京都市北区にあった北野廃寺(きたのはいじ)に運ばれ、そこで使われたことがわかりました。豊浦寺は飛鳥時代の最大の豪族であった蘇我氏(そがし)が建てたお寺ですから、隼上り窯で瓦を生産した人々は、蘇我氏と親しい関係をもっていたのかもしれません。
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現在の様子 | 現在は、国の史跡に指定(してい)され、公園のなかに保存(ほぞん)されています |
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