椎迫台地(しいざこだいち)の南側のしゃ面にある、南北約12.5m、東西約12mの方墳(ほうふん)で、古墳時代後期(こふんじだいこうき)つくられたものです。遺体(いたい)をおさめた石室(せきしつ)は、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)とよばれる珍しいもので、九州では古宮古墳(ふるみやこふん)しかありません。このつくり方は、7世紀中ごろに大和(やまと/いまの奈良県<ならけん>)地域(ちいき)を中心に流行(りゅうこう)したものなので、この古墳(こふん)に埋葬(まいそう)された人物は、ヤマト政権(せいけん)と深く関わっていたと思われます。それは誰(だれ)でしょう?
672年の壬申(じんしん)の乱で活躍(かつやく)し、『日本書紀(にほんしょき)』にも名前がでてくる「大分君(おおいたのきみ)恵尺(えさか)・稚臣(わかみ)」という2人の豪族(ごうぞく)のうち、恵尺(えさか)がこの古墳(こふん)にほうむられた人物の有力(ゆうりょく)な候補者(こうほしゃ)とされています。
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全景
石室内部のようす
遠景
現在の様子 | 現在は、史跡公園(しせきこうえん)として整備(せいび)されています |
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