大淵遺跡(おおぶちいせき)は、松山平野の北部、船ヶ谷遺跡(ふねがたにいせき)の近くにある縄文時代晩期(じょうもんじだいばんき)の終わりごろのムラです。発掘調査(はっくつちょうさ)で、この時期の特徴をもつ土器(どき)が大量に出土(しゅつど)し、その中に稲(いね)の籾(もみ)がおしつけられた跡(あと)が残る土器(どき)や、稲の穂をかる石庖丁(いしぼうちょう)、石鎌(いしがま)があることなどから、この時期に松山平野に米づくりが入ってきたことが確実になりました。遺跡(いせき)からは、松山平野でも出土(しゅつど)例の非常に少ない土偶(どぐう)や赤い漆(うるし)ぬりの竪櫛(たてぐし)などが出土(しゅつど)しています。また、朝鮮(ちょうせん)半島南部にその源(みなもと)がある彩文土器(さいもんどき)が出土(しゅつど)していることは、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から北部九州を通って、瀬戸内(せとうち)西部の松山平野(まつやまへいや)にいたる、初期の米づくりの伝わり方を考えるうえで重要な発見になりました。
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大淵遺跡出土土偶
大淵遺跡出土石庖丁
大淵遺跡出土縄文土器と彩文土器
現在の様子 | 現在は、松山市立北中学校になっているため、見学できません |
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