興野々寺山遺跡(おきののてらやまいせき)は、下流で四万十川(しまんとがわ)と合流する広見川(ひろみがわ)の左岸に位置しています。この遺跡(いせき)は、弥生時代後期(やよいじだいこうき)の環濠(かんごう)をともなうムラで、環濠(かんごう)と思われる溝(みぞ)2本と、一辺が3mほどの小型(こがた)の住居(たて穴建物)群がみつかっています。出土(しゅつど)した土器(どき)は、高知県(こうちけん)で出土(しゅつど)する土器(どき)と共通しています。石器(せっき)は、磨石(すりいし)や叩き石(たたきいし)、石皿(いしさら)などはありますが、米づくりにともなう道具類がとても少ないという特徴(とくちょう)があります。米づくりにたよらない生活をしていたようです。
写真提供:鬼北町教育委員会
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全景
現地説明会のようす
出土した土器
現在の様子 | 現地は整備(せいび)され、たて穴住居が復元(ふくげん)されています |
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