長野県ながのけん
  • 遺跡数14,888か所
  • 面 積13,562㎢
ドキジロー
長野県のマップ井戸尻考古館茅野市尖石縄文考古館黒耀石体験ミュージアム浅間縄文ミュージアム長野県立歴史館科野の里歴史公園 森将軍塚古墳館中野市立博物館大町市資料館・文化財センター長野県埋蔵文化財センター長野市立博物館野尻湖ナウマンゾウ博物館立が鼻遺跡鷹山遺跡群柳又遺跡矢出川遺跡群栃原岩陰遺跡星糞峠黒曜石原産地遺跡井戸尻遺跡尖石・与助尾根遺跡山の神遺跡柳沢遺跡森将軍塚古墳大室古墳群弘法山古墳飯田古墳群

長野県(ながのけん)にある遺跡(いせき)の数は14260ヶ所で、全国で9番目ですが、長野県(ながのけん)は面積(めんせき)の8割(わり)が森林(しんりん)です。ふつう、山の中には遺跡(いせき)はあまり残されません。したがって現在、私達が住んでいるまわりの地下(ちか)には、多くの遺跡(いせき)が埋(う)もれているといっていいでしょう。時代別(じだいべつ)にみると、縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡は全国で第3位、旧石器時代(きゅうせっきじだい)と弥生時代(やよいじだい)の遺跡は4位です。全国的にみても、遺跡(いせき)の多い県(けん)といえます。長野県(ながのけん)の真ん中、和田峠(わだとうげ)から霧ヶ峰(きりがみね)・八ヶ岳(やつがたけ)にかけては、本州(ほんしゅう)で最大級(さいだいきゅう)の黒曜石(こくようせき)の産地(さんち)があり、旧石器時代(きゅうせっきじだい)から縄文時代(じょうもんじだい)には、この黒曜石(こくようせき)を利用(りよう)して、栄(さか)えました。黒曜石(こくようせき)を求(もと)めて人びとが行き来し、独特(どくとく)な土器(どき)や土偶(どぐう)などを作りました。弥生時代(やよいじだい)の千曲川(ちくまがわ)の流域(りゅういき)に発達(はったつ)した赤く塗(ぬ)られた土器文化(どきぶんか)は、「赤い土器(どき)のクニ」と呼(よ)ばれるほどです。古墳時代(こふんじだい)に、いち早くヤマト政権(せいけん)と結びついたのは、長野盆地(ながのぼんち)で「赤い土器(どき)のクニ」が発展(はってん)した勢力(せいりょく)だったようです。古墳時代(こふんじだい)の中期(ちゅうき)以降(いこう)は、県南部の古墳文化(こふんぶんか)が発展(はってん)します。それは馬の飼育(しいく)や馬にかかわる文化(ぶんか)でヤマト政権(せいけん)と結びつきが強くなったといわれています。

うちのお宝 ベスト5

  • 石器(せっき)

    石器(せっき)「旧石器時代(きゅうせっきじだい)の芸術品(げいじゅつひん)」神子柴(みこしば)遺跡 国指定重要文化財

    遺跡(いせき)が発掘(はっくつ)されたきっかけは、黒曜石(こくようせき)の槍(やり)を小学生がみつけて、学校に持って行ったことでした。それが、この地域の歴史を研究していた考古学者(こうこがくしゃ)の目にとまり、発掘(はっくつ)がおこなわれました。そして、長さ10cmをはるかに超(こ)える石の槍(やり)と巨大な石斧(いしおの)がみつかりました。完成された石器(せっき)ばかりが発見されたので、住まいであったとか、墓であったとか、意見が分かれています。

  • 土偶(どぐう)「縄文(じょうもん)のヴィーナス」

    土偶(どぐう)「縄文(じょうもん)のビーナス」棚畑遺跡(たなばたけいせき) 国宝

    縄文時代中期(じょうもんじだいちゅうき)の土偶(どぐう)です。表面はよく磨(みが)かれて、つるつるしています。また、土偶(どぐう)を作った粘土(ねんど)は、雲母(うんも)という小さな鉱物(こうぶつ)が混(ま)じっており、金色に輝(かがや)いています。高さ27cmで、ボリューム感あふれる土偶(どぐう)です。1995年に、縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(いせき)からみつかったもののなかで、はじめて国宝(こくほう)に指定されました。

  • 土偶(どぐう)「仮面(かめん)の女神(めがみ)」

    土偶(どぐう)「仮面(かめん)の女神(めがみ)」中ッ原遺跡(なかっぱらいせき) 国宝

    「仮面(かめん)の女神(めがみ)」というニックネームがつけられたこの土偶(どぐう)は、細かく複雑(ふくざつ)なもようで飾(かざ)られており、すぐれた作品だと世界中から高く評価(ひょうか)されています。ムラの中央部に埋(う)められていました。現在、全国で5点の土偶(どぐう)が国宝(こくほう)に指定(してい)されていますが、そのうちの2点が長野県から発掘(はっくつ)されました。「縄文(じょうもん)のビーナス」とともに、長野県(ながのけん)の自慢(じまん)の出土品(しゅつどひん)です。

  • 水煙土器(すいえんどき)

    撮影:田枝幹宏

    水煙土器(すいえんどき)「ひときわの美と風格(ふうかく)」曽利遺跡(そりいせき) 長野県宝

    曽利遺跡(そりいせき)は、井戸尻遺跡群(いどじりいせきぐん)に含(ふく)まれる遺跡(いせき)の1つです。そこで出土(しゅつど)したこの縄文時代中期(じょうもんじだいちゅうき)の土器は、長野県(ながのけん)から山梨県(やまなしけん)にかけての地域でよくみられる形ですが、そのなかでもとくに美しい土器(どき)として、長野県宝(ながのけんぽう)に指定されました。1963年にパリで開かれた「日本古美術展(にほんこびじゅつてん)」で展示(てんじ)されたり、1972年には、郵便(ゆうびん)はがきのデザインに採用(さいよう)されました。

  • 銅鐸(どうたく)

    銅鐸(どうたく)「弥生人がはじめて見た黄金色の輝(かがや)き」塩尻市柴宮(しおじりししばみや) 長野県宝

    1960年、塩尻市(しおじりし)の大門神社(だいもんじんじゃ)の境内(けいだい)で、銅鐸(どうたく)が発見(はっけん)された時、大きなニュースとなりました。それまで長野県(ながのけん)は、銅鐸(どうたく)を使う祭りをおこなわない地域だと考えられていたからです。柴宮(しばみや)の銅鐸(どうたく)は、東海(とうかい)地方でつくられた銅鐸(どうたく)の特徴(とくちょう)をもっており、長野県(ながのけん)と東海(とうかい)地方に交流(こうりゅう)があったことを示しています。この銅鐸(どうたく)は今ではさびていますが、作られたときは、今の新しい10円玉のようにピカピカに光っていました。使われたのは弥生時代後期(やよいじだいこうき)で、米づくりの祭りに使われたといわれています。

error: コンテンツは保護されています
ページトップへ戻る