- 遺跡数5,188か所
- 面 積4,465㎢
山梨県(やまなしけん)は、日本列島(れっとう)のほぼ中央にあり、世界遺産(せかいいさん)になった富士山(ふじさん)をはじめ、標高(ひょうこう)3,000mをこす山々に囲(かこ)まれて、海に面していない県です。それでも、山から流れ込む富士川、釜無川(かまなしがわ)、笛吹川(ふえふきがわ)などがあり、豊かな自然の中で、古代より西から東へ、また南から北へと、人びとが行きかう交通の重要(じゅうよう)な場所として、さまざまな物や情報(じょうほう)がもたらされて、歴史や文化がつくられてきました。
山梨県(やまなしけん)に人類(じんるい)が暮(く)らした跡(あと)が確かめられるのは約3万年前の旧石器時代(きゅうせっきじだい)からで、長野県(ながのけん)や伊豆諸島(いずしょとう)の神津島(こうづしま)の黒曜石(こくようせき)が出土(しゅつど)しており、大昔から遠い地域まで人々が行き来していたことがわかります。旧石器時代(きゅうせっきじだい)から縄文時代(じょうもんじだい)の前期(ぜんき)までは八ヶ岳(やつがたけ)や富士山(ふじさん)のふもとなど、山の方に遺跡(いせき)が多いのですが、縄文時代(じょうもんじだい)の中期(ちゅうき)には甲府盆地(こうふぼんち)にもムラがつくられました。縄文時代(じょうもんじだい)の後期(こうき)と晩期(ばんき)には、地球(ちきゅう)が寒くなって遺跡(いせき)の数が減(へ)りますが、八ヶ岳(やつがたけ)のふもとに、配石遺構(はいせきいこう)など祭りをする施設(しせつ)をもつ金生遺跡(きんしょういせき)や牛石遺跡(うしいしいせき)などがあらわれます。山梨県へ米づくりが伝わったのは弥生時代前期後半で、宮ノ前遺跡(みやのまえいせき)で田んぼがみつかりました。中期(ちゅうき)には甲府盆地(こうふぼんち)の開拓(かいたく)が進み、金の尾遺跡(かねのおいせき)などの大きなムラや上の平遺跡(うえのひらいせき)などの方形周溝墓群がつくられました。古墳時代(こふんじだい)の4世紀後半には、東日本最大級の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)である甲斐銚子塚古墳(かいちょうしづかこふん)が出現(しゅつげん)し、甲府盆地(こうふぼんち)に有力な首長(しゅちょう)がいたことがわかります。5世紀以降には盆地の各地で古墳(こふん)がつくられ、盆地のいちばん北では渡来人(とらいじん)の生産遺跡(いせき)や、渡来人(とらいじん)の墓(はか)と考えられている横根・桜井積石塚古墳群(よこね・さくらいつみいしづかこふんぐん)があります。
注目すべきは、縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(いせき)です。八ヶ岳(やつがたけ)を中心とした中部高地(ちゅうぶこうち)では、大昔から変わらない雄大(ゆうだい)な景色(けしき)の中、森のアーティスト・縄文人(じょうもんじん)が作った優(すぐ)れた土器(どき)や土偶(どぐう)などに出会い、縄文人(じょうもんじん)が生きた世界を感じることができる日本遺産(にほんいさん)、「星降(ほしふる)る中部高地(ちゅうぶこうち)の縄文世界(じょうもんせかい)」が広がっています。豊かな自然のなかで、縄文時代(じょうもんじだい)にタイムスリップしてみてください。
局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)横針前久保遺跡(よこはりまえくぼいせき)
今から約3万~2万5千年前、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の前半に、八ヶ岳(やつがたけ)の裾野(すその)にある山梨県(やまなしけん)で最古級(さいこきゅう)の狩(か)り場だった遺跡(いせき)でみつかった石器(せっき)で、刃の部分をきれいに磨(みが)いています。旧石器時代(きゅうせっきじだい)は、石を割ってつくる石器(せっき)がつかわれる時代です。日本では、世界でも珍しいことに、旧石器時代(きゅうせっきじだい)にも、刃の部分だけを磨(みが)いてつくる局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)がたくさん発見されています。山梨県(やまなしけん)では、これが初めて発見されたものです。局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)は、ナウマンゾウやオオツノシカなどの大型動物が姿を消すのと同時期にほぼなくなることから、大型動物の解体(かいたい)の道具だったという見方があります。近くには湧水(わきみず)もあり、水を求めて集まる動物を狩(か)るのに適した場所だったのでしょう。
深鉢(ふかばち)殿林遺跡(とのばやしいせき)
国指定重要文化財1962年、逆(さか)さまに埋(う)められた状態でみつかった縄文時代中期(じょうもんじだいちゅうき)の大きな深鉢(ふかばち)です。高さ72cm、口径56cm。形ともようがとても美しく、イタリアやフランス、アメリカ、マレーシアなど海外でも展示(てんじ)されました。
顔面把手付深鉢(がんめんとってつきふかばち)津金御所前遺跡
(つがねごしょまえいせき)
県指定重要文化財縄文時代中期(じょうもんじだいちゅうき)の住居(たて穴建物)跡から発見されました。元の形に復元(ふくげん)した高さ56cmの深鉢(ふかばち)で、土器(どき)の口のところにつけられた顔面把手(がんめんとって)と、土器(どき)の本体に描かれた人体のようなもようと、人の顔のような表現は、今まさに子供が生まれでる瞬間(しゅんかん)を表現していると考えられ、「出産文土器(しゅっさんもんどき」とも呼ばれています。この土器(どき)は縄文人(じょうもんじん)の心の世界をあらわすとともに、日本を代表する縄文美術(じょうもんびじゅつ)として国内外で高い評価(ひょうか)を受けています。
容器形土偶(ようきがたどぐう)岡遺跡(おかいせき) 県指定有形文化財
石和(いさわ)高等学校の生徒が破片(はへん)をみつけたことがきっかけとなり、1954年に現地調査(げんちちょうさ)がおこなわれ、得られた破片(はへん)をあわせて、2点の土偶(どぐう)になりました。顔や頭髪(とうはつ)の表現から、大きい方が男性(父親)、小さい方が女性(母親)となる男女ペアの土偶(どぐう)と考えられています。土偶(どぐう)が出土した場所の近くで、多量の焼(や)けた土や骨のカケラが確認されたことや、この土偶(どぐう)の内部が中空(ちゅうくう)になっていることから、亡くなった人の骨をいれる蔵骨器(ぞうこつき)だと考えられています。入れ墨(ずみ)と思われる顔の線、体に描(えが)かれたもようは、縄文時代(じょうもんじだい)の土偶(どぐう)から変化したものであることがわかります。この土偶(どぐう)は、本県における弥生時代(やよいじだい)の埋葬(まいそう)のしかたを考えるうえで貴重な資料です。
神獣鏡(しんじゅうきょう)鳥居原狐塚古墳
(とりいばらきつねづかこふん)
国指定重要文化財5世紀前半の鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)で出土(しゅつど)した銅鏡(どうきょう)です。鏡(かがみ)の直径は12.5cm。鏡(かがみ)の裏面(うらめん)にかかれた銘文(めいぶん)に、中国の三国時代(さんごくじだい/魏・呉・蜀)の「呉(ご)」の国の年号である「赤烏元年」(238年)の文字があります。その翌年に、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印と銅鏡100枚など豪華(ごうか)な品々を与えられおり、中国と倭の外交(がいこう)のうえで、重要な時期です。「赤烏」の年号がある鏡は、日本では他に兵庫県(ひょうごけん)の安倉高塚古墳(やすくらたかつかこふん)出土の「赤烏七年」とかいた銅鏡(どうきょう)しかない、非常に珍(めずら)しい鏡(かがみ)であり、なぜ山梨県(やまなしけん)から出土したのかはわかっていません。歴史ミステリーが秘(ひ)められた鏡(かがみ)なのです。