- 遺跡数3,436か所
- 面 積4,725㎢
紀伊半島(きいはんとう)に位置する和歌山県(わかやまけん)は、南北に細長く、その面積の大半は、紀伊山地(きいさんち)です。紀ノ川(きのかわ)の流域(りゅういき)には、旧石器時代(きゅうせっきじだい)以降、ひきつづき遺跡(いせき)がいとなまれ、遺跡(いせき)の密度(みつど)は他の川よりも高いです。特に、紀(き)の川(かわ)の河口(かこう)あたりでは、古墳時代(こふんじだい)に850基(き)以上の古墳(こふん)からなる岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)がつくられます。この古墳群(こふんぐん)で最も大きい前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、大日山35号墳(だいにちやまさんじゅうごごうふん)で全長105mあります。古墳(こふん)の造り出しからは、飛ぶ鳥の埴輪(はにわ)、胡録(ころく)の形の埴輪(はにわ)、両面に顔をもつ人物埴輪(じんぶつはにわ)など、珍しい埴輪(はにわ)が出土(しゅつど)しています。同じくらいの大きさの天王塚(てんのうづか)古墳(こふん)は、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の高さが6m近くもあり、全国で2番目の高さを誇(ほこ)っています。海岸線や島々には、塩づくりや漁(りょう)をしてくらした人々が、のこした遺跡(いせき)が多くみられるのも特徴(とくちょう)で、海の波でけずられてできた崖(がけ)を墓地(ぼち)として利用した海人(あま)の墓(はか)があることも、特色の一つです。5世紀は、紀伊(きい)に大きな変化がおきた時代で、あちこちに朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からの渡来文化(とらいぶんか)の影響(えいきょう)を見ることができます。楠見遺跡(くすみいせき)の陶質土器(とうしつどき)、大谷古墳(こふん)の馬甲(ばこう)、車駕之古址(しゃかのこし)古墳(こふん)から出土(しゅつど)した金製(きんせい)のまが玉などが、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との交流を裏(うら)づける資料(しりょう)といえるでしょう。
金のまが玉車駕之古址古墳(しゃかのこしこふん) 県指定文化財
全長18mmの金色にかがやくまが玉です。頭部には刻(きざ)み目を入れた、細い金の紐(ひも)をはりつけてかざっています。首飾(くびかざ)りの中心の玉として使ったと思われます。まが玉の成分(せいぶん)は純金ではなく、金(63~64%)、銀(ぎん)(35~36%)、ごくわずかな銅(どう)をまぜた合金(ごうきん)です。現在の金の細工(さいく)に使われる割合(わりあい)と近いそうです。ちょうどいいかたさで、しかも金色が失われないように計算されていたようです。金製(せい)のまが玉は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に似たものがありますが、国内ではこれ一つだけです。
馬のかぶと大谷古墳(おおたにこふん) 国指定重要文化財
馬の甲冑(かっちゅう)は、高句麗(こうくり)の古墳(こふん)の壁画(へきが)などでその存在(そんざい)が知られていましたが、実物(じつぶつ)としては、東アジアでは初めての発見でした。その後、韓国(かんこく)では、プサン市の福泉洞(ふくせんどう)10号墳(ふん)で発見され、大きな話題となりました。いまでは、20例以上が発見されています。中国東北部に源流(げんりゅう)がある、馬に乗って戦う兵士のもち物が、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を経由(けいゆ)して、日本列島(れっとう)にもち込まれたと考えられます。武器(ぶき)も多くみつかっていることから、墓(はか)の主(あるじ)は武人(ぶじん)と考えられます。
埴輪群(はにわぐん)岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)
大日山35号墳の埴輪(はにわ)には、日本で初めてみつかった埴輪(はにわ)があります。それは、翼(つばさ)を広げた鳥の埴輪と両面に顔をもつ人物埴輪(じんぶつはにわ)です。「翼(つばさ)を広げた鳥」は、頭と胴体(どうたい)が丸くてかわいらしい姿(すがた)をしています。破片(はへん)から見ると、3つあったと思われます。両面に顔をもつ人物埴輪(じんぶつはにわ)は、片方がやさしそうな顔、もう片方がこわい顔をしています。こわい顔には入れ墨(ずみ)がされています。8世紀に完成した歴史書(れきししょ)の『日本書紀(にほんしょき)』に書かれた、顔が2つあるという「飛騨(ひだ)の両面すくな」を思わせるような埴輪(はにわ)です。