宮崎県みやざきけん
  • 遺跡数6,648か所
  • 面 積7,734㎢
ニニギくん、コノハナちゃん
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宮崎県(みやざきけん)は九州の南東部に位置し、面積は7735.31平方㎞です。南北に長く、東は太平洋(たいへいよう)に面する長い海岸線をもち、西半部は一部が九州山地に属(ぞく)する山間部(さんかんぶ)で、県の面積の76%を占めています。気候(きこう)は年間を通して温暖(おんだん)で、日照(にっしょう)時間、降水量(こうすいりょう)とも日本の上位にあります。豊かな自然に恵まれた宮崎県(みやざきけん)には、旧石器時代(きゅうせっきじだい)から近世・近代まで各時代の遺跡(いせき)が6600ヶ所以上で確認されています。時代別でもっとも多いのは縄文時代(じょうもんじだい)の約2000ヶ所、次に弥生時代(やよいじだい)の約1800ヶ所、中世(ちゅうせい)の1730ヶ所、古墳時代(こふんじだい)の1200ヶ所と続きます。
その中でもっとも特徴(とくちょう)的なのは古墳時代(こふんじだい)です。古墳時代(こふんじだい)の前期(ぜんき)では、九州最大の生目3号墳(いきめさんごうふん)、古墳時代(こふんじだい)を通じて九州で最大の男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)・女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)をはじめ、約2000基(き)の古墳(こふん)が存在します。全国的に分布(ぶんぷ)する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)や円墳(えんぷん)、方墳(ほうふん)などの墳丘(ふんきゅう)をもつ古墳(こふん)に加え、宮崎市(みやざきし)が分布(ぶんぷ)の南限(なんげん)となる横穴墓(よこあなぼ)、そして南九州だけに存在する独特(どくとく)の地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)が混在(こんざい)しています。

うちのお宝 ベスト5

  • 金銅製(こんどうせい)の馬具(ばぐ)

    金銅製(こんどうせい)の馬具(ばぐ)百塚原古墳群(ひゃくつかばるこふんぐん) 国宝

    宮崎県(みやざきけん)の遺跡(いせき)からの出土品(しゅつどひん)で、たった一つ国宝に指定されています。6世紀前半、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の新羅(しらぎ)の職人(しょくにん)によって作られたと考えられます。金銅製(こんどうせい)の透かし彫り(すかしぼり)と無地(むじ)の2セットがあります。透かし彫り(すかしぼり)のセットは、馬に乗るために馬につける道具がすべてそろっています。この馬具は、1907(明治40)年前後に、地元の農民(のうみん)がほり出し、その後いろいろな人の手にわたり、現在は東京の五島美術館(ごとうびじゅつかん)にあります。

  • 埴輪(はにわ)の子持家(こもちいえ) 船(ふね)

    埴輪(はにわ)の子持家(こもちいえ)と船(ふね)西都原古墳群(さいとばるこふんぐん) 国指定重要文化財

    男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)の陪塚(ばいづか)である170号墳から出土(しゅつど)したものです。子持家(こもちいえ)の埴輪(はにわ)は、大きな家に小さな家がついています。船(ふね)の埴輪(はにわ)は、船(ふね)の前後に大きくそりあがった飾(かざ)り板がつき、大きな海でも航海(こうかい)ができる船です。これらの埴輪は、1912(大正元)年から行われた発掘調査で出土(しゅつど)しました。

  • 龍をえがいた大刀

    龍(りゅう)をえがいた大刀(たち)島内地下式横穴墓群(しまうちちかしきよこあなぼぐん) 国指定重要文化財

    島内地下式横穴墓群(しまうちちかしきよこあなぼぐん)の114号墓(ごうぼ)から出土(しゅつど)したもので、刀の右側と左側にそれぞれ竜(りゅう)の絵と、お日さまマークのような絵が銀で象嵌(ぞうがん)されています。6世紀の大刀(たち)に竜(りゅう)の絵の象嵌(ぞうがん)があるのは、奈良県(ならけん)にある新沢千塚327号墳(にいざわせんづか327ごうふん)と吉備塚古墳(きびづかこふん)で出土(しゅつど)したものと合わせて3例しかない、めずらしいものです。この刀(かたな)を手にいれた人物は、ヤマト政権(せいけん)との強いつながりがあったと考えられています。

  • いろいろな埴輪たち

    いろいろな埴輪(はにわ)たち百足塚古墳(むかでづかこふん)

    宮崎県(みやざきけん)は、古墳(こふん)が多いので、埴輪(はにわ)も多いというイメージがあり、人物埴輪(じんぶつはにわ)が企業(きぎょう)のキャラクターやマスコットなどのデザインに使われたりしています。しかし実際には、人物や動物などの形象埴輪(けいしょうはにわ)がまとまって出土(しゅつど)しているのは、国史跡(くにしせき)である新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)の百足塚古墳(むかでづかこふん)だけです。発掘調査(はっくつちょうさ)で出土(しゅつど)した埴輪群(はにわぐん)は、巫女(みこ)や力士(りきし)をふくむ人物(じんぶつ)、シカ、ウマ、イヌ、ニワトリ、イノシシ、家、柵形(さくがた)、太鼓形(たいこがた)など、いろいろなものの埴輪(はにわ)がありました。これらの埴輪(はにわ)の種類と組みあわせが、大阪府の今城塚古墳(いましろづか)とも共通していることが、注目を集めています。

  • 土偶(どぐう)

    土偶(どぐう)陣内遺跡(じんないいせき)

    南九州では、土偶(どぐう)はわずか2例しか知られていません。農業が始められるより前の縄文時代(じょうもんじだい)に作られた土偶(どぐう)は、妊娠(にんしん)した女性をかたどったものが多く、新たな命や自然の恵みを得ることを祈ったものと考えられます。南九州で土偶(どぐう)の出土(しゅつど)が少ないのは、温暖(おんだん)な気候がもたらす豊かな恵みのため、土偶(どぐう)の祭りを必要としなかったからかもしれません。陣内遺跡(じんないいせき)の土偶(どぐう)は、頭と右手の一部、両足の先端(せんたん)が欠(か)けていますが、胸やお腹のふくらみから、妊娠(にんしん)した女性をあらわしたものと思われます。

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