- 遺跡数4,538か所
- 面 積6,341㎢
大分県(おおいたけん)は、九州の東北部(とうほくぶ)にあります。その複雑な地形から、地域(ちいき)によって気候もことなるため、生活環境(かんきょう)も地域(ちいき)ごとに違っています。その地域(ちいき)は、①周防灘沿岸(すおうなだえんがん)の北部地域(ちいき)、②別府湾(べっぷわん)の沿岸地域(えんがんちいき)、③臼杵(うすき)より南の豊後水道(ぶんごすいどう)の沿岸地域(えんがんちいき)、④日田(ひた)・玖珠(くす)を中心とする筑後川(ちくごがわ)の上流地域(じょうりゅうちいき)、⑤竹田市(たけたし)から大野郡(おおのぐん)の大野川(おおのがわ)中・上流地域(ちいき)の5つに分けられます。弥生土器(やよいどき)や古墳文化(こふんぶんか)にみられる地域(ちいき)の特徴(とくちょう)も、この5つの地域(ちいき)ごとにまとまりをみせることが大きな特徴(とくちょう)です。とくに弥生時代(やよいじだい)には、①北部地域(ちいき)では、北部九州との強い関係を示す土器(どき)が、②別府湾(べっぷわん)沿岸地域(えんがんちいき)では、瀬戸内海地域(せとないかいちいき)の強い影響(えいきょう)を示す土器(どき)がみられます。さらに、⑤大野川(おおのがわ)中・上流域(りゅういき)では、後期(こうき)を中心に熊本(くまもと)地方との交流を示す土器(どき)が出土(しゅつど)し、畑作(はたさく)を中心とする大きななムラがつくられるなど、それぞれの地域(ちいき)ごとに、他の地域(ちいき)との結びつきが認(みと)められます。また、古墳時代(こふんじだい)には、別府湾(べっぷわん)の沿岸(えんがん)を中心とする海ぞいの地域(ちいき)に、100m前後の大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がいくつかつくられる点も、特徴(とくちょう)の1つにあげられます。
黒曜石(こくようせき)を入れたカゴ横尾貝塚(よこおかいづか)
瀬戸内海(せとないかい)の西、国東半島(くにさきはんとう)の沖(おき)にうかぶ姫島(ひめしま)の黒曜石(こくようせき)のかけらを入れたカゴです。約7300年前に鹿児島半島沖(かごしまはんとうおき)で噴火(ふんか)した海底火山(かいていかざん)、鬼界(きかい)カルデラから噴出(ふんしゅつ)した火山灰(かざんばい)におおわれた状態で発見されました。カゴは植物の繊維(せんい)で編(あ)まれており、目がこまかく、とても丁寧(ていねい)に作られています。そのカゴの中には、69個以上の姫島(ひめしま)の黒曜石(こくようせき)が入っていました。縄文時代(じょうもんじだい)に石器(せっき)の材料として好まれた姫島(ひめしま)の黒曜石(こくようせき)を内陸(ないりく)に運ぶために、カゴに入れていたと考えられます。
絵画土器(かいがどき)四日市遺跡(よっかいちいせき)
弥生時代(やよいじだい)の壺(つぼ)の口の部分に、シカと矢じりが線で描(えが)かれた土器(どき)で、県内では初めて出土(しゅつど)しました。雄(おす)のシカは、毎年初夏(しょか)に角(つの)が生えはじめ、翌年(よくねん)の春に抜(ぬ)け落ちます。弥生時代(やよいじだい)の人々は、毎年はえかわる角(つの)をもつシカを、豊かな実りのシンボルと考えていたのです。また、発見された絵には矢じりもあり、これは豊猟(ほうりょう)を願(ねが)って描(えが)かれたものだったのかもしれません。シカと矢じりを描(えが)いた2つの土器(どき)は、ムラの祭りの時に重要(じゅうよう)な役割(やくわり)をはたしたと思われます。
横穴墓(よこあなぼ)の出土品(しゅつどひん)長湯横穴墓群7号墓(ながゆよこあなぼぐん7ごうぼ)
6世紀前半につくられた7号横穴墓(よこあなぼ)から出土(しゅつど)した人骨(じんこつ)3体と、鉄(てつ)の刀剣(とうけん)、南の海でとれるゴホウラ貝製(せい)の腕輪(うでわ)や、ヤコウ貝製(せい)の装飾品(そうしょくひん)などの出土品(しゅつどひん)です。刀(かたな)と剣(けん)の装飾(そうしょく)には、シカの角(つの)が使われていました。また、ゴホウラ貝やヤコウ貝など南の海の貝で作ったアクセサリーは、ほうむられた人が広い地域(ちいき)と交易(こうえき)をしていた有力者(ゆうりょくしゃ)であったことを物語っています。いずれも近年(きんねん)、県の指定文化財(していぶんかざい)となりました。人骨(じんこつ)は、老年男性(ろうねんだんせい)と成年女性(せいねんじょせい)、子どもの3人でした。骨(ほね)の分析(ぶんせき)から、老年(ろうねん)の男性は、殺人(さつじん)事件によって、命を落としたことがわかっています。残念ながら、犯人(はんにん)や原因は謎(なぞ)のままです。
鳥舟付器台(とりふねつききだい)一ノ瀬2号墳(いちのせ2ごうふん)
器台(きだい)とは、上に壺(つぼ)などの土器(どき)をのせる台なのですが、これはとても珍しい形をした器台(きだい)です。外側に4段の粘土帯(ねんどたい)をめぐらせ、その粘土帯(ねんどたい)の下から順に、人が乗った舟と鳥、鳥と小さな壺(つぼ)、小さな壺(つぼ)をかたどったミニチュアが置かれ、口の部分には龍(りゅう)と考えられる粘土紐(ねんどひも)が付けられています。このような飾(かざ)りは、死者が船(ふね)に乗り、鳥に導(みちび)かれながら死者の世界に旅立つ様子(ようす)を表現したものと考えられています。古墳時代(こふんじだい)の人々の死者に対する思いや、死後の世界についての考えを具体的(ぐたいてき)に物語る貴重(きちょう)な資料(しりょう)です。
石の甲(よろい)臼塚古墳(うすづかこふん) 国指定重要文化財
古墳時代中期(こふんじだいちゅうき)、5世紀の初めから中ごろにつくられた臼塚古墳(うすづかこふん)にある、甲(よろい)の形をした2基(き)の石造物(せきぞうぶつ)です。古墳(こふん)の上に並べられる埴輪(はにわ)と同じ意味をもち、古墳(こふん)にほうむられた人々を守る番人(ばんにん)の役割(やくわり)をはたしていたと考えられています。同じようのものは、国内でも十数例しかみつかっていません。その中でも一番古く、とても珍(めずら)しいものです。表面には、赤くぬられた痕(あと)もあり、甲(よろい)を身につけた武人(ぶじん)に似ているため、「短甲型石人(たんこうがたせきじん)」ともよばれます。この石人(せきじん)は、臼(うす)と杵(きね)をドッキングしたようにも見えることから、「臼杵(うすき)」という地名はこの石人から起こったとも言われています。昭和51年6月5日に国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されています。