◎古墳時代(こふんじだい)は、3つの時期(じき)にわけられます。およそ350年続きました。
いまのような大きな機械やトラックのない時代(じだい)、古墳(こふん)をつくるのは、大変です。
「仁徳陵(にんとくりょう)」として知られる大山古墳(だいせんこふん)は、日本最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。この大山古墳(だいせんこふん)をつくるのに、いったいどれくらいの人手(ひとで)と時間、費用(ひよう)がかかったのかを、土木・建設(どぼく・けんせつ)の仕事をする、ある会社が計算してみました。結果は、イラストのとおりです。
ちなみに、これらの計算には古墳(こふん)にならべる埴輪(はにわ)や死者をおさめる棺(ひつぎ)、副葬品(ふくそうひん)をつくる仕事は含まれていません。それらを加えると、本当に大規模(だいきぼ)な工事(こうじ)だったことがわかります。それだけ大勢の人に命令(めいれい)できるほど、大王(おおきみ)の力は強かったということですね。
※2000人とは古墳(こふん)づくりをする人の数で、工事を指導・監督(しどう・かんとく)する人、工事で使う道具をつくる人、食事の世話をする人などをあわせると、1日6000人ほどの人が工事にかかわっていたとされています。
大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市(おおさかふさかいし)・羽曳野市(はびきのし)・藤井寺市(ふじいでらし)にまたがる百舌鳥・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)に含まれています。この古墳群は、全国的にも大きな前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が集中(しゅうちゅう)しており、2019年7月に世界文化遺産(せかいぶんかいさん)に登録(とうろく)されました。
<参考文献>大林組『季刊大林 No.20 現代技術と古代技術による仁徳陵古墳の建設』 1985年
埴輪(はにわ)といえば、みなさんは人物のような形の埴輪(はにわ)を思いうかべるでしょうが、埴輪(はにわ)のはじまりは、筒(つつ)のような円筒埴輪(えんとうはにわ)です。弥生時代(やよいじだい)には、有力者の墓(はか)に、食べ物や飲み物を入れた壺(つぼ)を供(そな)え物として並べていました。古墳時代(こふんじだい)にはその壺(つぼ)を置く台がだんだん形を変え、円筒埴輪(えんとうはにわ)や壺形(つぼがた)の埴輪(はにわ)、壺(つぼ)を台に置いた形の朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)もでてきました。また、家、船、武器(ぶき)、日傘(ひがさ)、イスのほか、イノシシ・シカ・ウマなどの動物や鳥、人物の埴輪(はにわ)もあります。これらの埴輪(はにわ)は、墳丘(ふんきゅう)をはじめ、造出し(つくりだし)や墳丘(ふんきゅう)のまわりの堤(つつみ)の上などに並べられました。こうした埴輪(はにわ)を並べる意味はよくわかりませんが、古墳(こふん)に葬(ほうむ)られた人が生きていた時の様子(ようす)を再現(さいげん)したり、死後(しご)の世界や神さまをまつる場面をあらわしているのではないかと考えられています。
人物埴輪(はにわ)には、王、武人(ぶじん)、捧(ささ)げ物をする女性、墓守(はかもり)、相撲取(すもうと)り、鵜飼(うか)い、馬ひき、琴(こと)をひく人、農民(のうみん)・・・など、いろいろな人がいます。
日本列島(れっとう)で馬がみられるようになるのは、5世紀になってからのことです。そのころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から日本列島(れっとう)に移住(いじゅう)してきた渡来人(とらいじん)がたくさんいて、海の向こうからいろいろな文化や技術がもちこまれました。馬も、そういう渡来人(とらいじん)たちが連れてきたようです。遺跡(いせき)や古墳(こふん)から、馬の骨や馬にのるための道具が出土(しゅつど)しているので馬がいたことがわかりますが、簡単(かんたん)な船しかない時代(じだい)に、どうやって馬を運んだのでしょうね。
いま、競馬(けいば)などでよくみる馬は体の高さが150cm以上の大型ですが、古墳時代(こふんじだい)の馬は体の高さが120~130cmほどの小さい馬でした。それでも、馬のおかげで、陸地(りくち)の移動(いどう)がとても楽になりました。荷物もたくさん運べるし、速く走れるので戦場(せんじょう)でも活躍(かつやく)しました。みんなが欲しがって、全国にどんどん広まっていきました。
古墳時代(こふんじだい)の日本列島(れっとう)を、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の人たちは「倭(わ)」と呼んでいました。そのころ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の西側には百済(くだら)、東側には新羅(しらぎ)、その間に伽耶(かや)、そして北の方には高句麗(こうくり)という国がありました。
そのなかで、倭(わ)といちばん仲良しだったのは、伽耶(かや)でした。伽耶(かや)は、鉄(てつ)がとれるので、弥生時代(やよいじだい)から北部九州の人々が鉄(てつ)を手に入れるために行き来していた地域(ちいき)でした。鉄(てつ)は貴重(きちょう)な品なので、倭(わ)にとって伽耶(かや)は大切な国でした。だから、4世紀の終わりごろ、新羅(しらぎ)と高句麗(こうくり)の連合軍(れんごうぐん)が伽耶(かや)を攻(せ)めた時、倭(わ)は、伽耶(かや)を助けるために軍隊(ぐんたい)を送っていっしょに戦いました。
5世紀になると、伽耶(かや)を通して百済(くだら)とも親(した)しくなりました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では、たびたび戦いが起きていたので、百済(くだら)を助けるために、食べ物や馬などを送ったり、軍隊(ぐんたい)を送ったりしました。そのお礼に、百済(くだら)の王は、金メッキした冠(かんむり)や耳飾(かざ)り、飾(かざ)りのついた大刀(たち)など、倭(わ)がもっていないような珍(めずら)しい品物や、大陸の進んだ学問(がくもん)、技術(ぎじゅつ)、文化をもった人たちを倭(わ)に送りました。そうやって、倭(わ)は、伽耶(かや)や百済(くだら)とお互いに足りないものを与えあい、支えあっていました。
5世紀になると、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)との行き来が盛(さか)んになるだけでなく、中国にもたびたび使者(ししゃ)を送っています。弥生時代(やよいじだい)の終わりごろから、丸木船(まるきぶね)の両側に板をつけた大きな船(ふね)が登場(とうじょう)するので、海の行き来も安心でずいぶん楽になったことでしょう。
古墳時代(じだい)には船(ふね)の埴輪(はにわ)があるので、だいたいの形や大きさがわかります。船形埴輪(ふながたはにわ)のなかには、旗(はた)や大刀(たち)、日傘(ひがさ)などを立てて飾(かざ)った船があります。船は、死者のたましいを運ぶと信じられていたので、死者のための船の埴輪(はにわ)が古墳(こふん)に置かれたようです。