人類(じんるい)が、ほかの動物と違(ちが)うのは、道具を作り、使うことです。
ほかの動物は、自分の体でできることしかできませんが、人間は道具を使うことによって、
自分より足のはやい動物をつかまえたり、大きな木を切りたおしたり、できるようになりました。
そうして人類(じんるい)は栄(さか)えました。
人間が発明(はつめい)した道具、今回は「土器(どき)」について調べてみましょう。
「土器(どき)」って、
なぁに?
さて、問題です。次のうち、「土器(どき)」 はどれでしょうか?
答えは、①です。土器(どき)は、粘土(ねんど)を焼(や)いてつくった器(うつわ)です。②「土偶(どぐう)」や③「埴輪(はにわ)」は、土器(どき)ではありません。 土器(どき)は、おもに煮炊(にた)きをする鍋(なべ)や、食べ物を入れておく食器(しょっき)として使われました。ほかにも、物を入れて運(はこ)んだり、保管(ほかん)したりするときにも使われたことでしょう。また、墓(はか)に葬(ほうむ)られた人に食べ物を供(そな)えたり、棺(ひつぎ)に入れたり、儀式(ぎしき)や祭りの場面(ばめん)で使われたりするような特別な土器(どき)もありました。 いろいろな場面で使われたので、遺跡(いせき)の発掘調査(はっくつちょうさ)で、もっとも多くみつかるものです。
「土器(どき)」 の
歴史(れきし)
壺(つぼ)
井原塚廻遺跡 出土/福岡県
提供:伊都国歴史博物館
井原塚廻遺跡 出土/福岡県
提供:伊都国歴史博物館
甕(かめ)
和歌山県 出土
和歌山県 出土
「土器(どき)」の登場(とうじょう)
日本列島(れっとう)では、土器(どき)は約1万6000年前の縄文時代(じょうもんじだい)から使われはじめました。これらは縄文土器(じょうもんどき)とよばれ、世界でもっとも古い土器(どき)の一つです。作りはじめたころの土器(どき)は、あみ籠(かご)や獣(けもの)の皮で作った革袋(かわぶくろ)などの形をまねて作られたのではないかと考えられています。 縄文土器(じょうもんどき)は約1万年もの長い間、おもに煮炊(にた)きをする鍋(なべ)として使われましたが、その形は地域(ちいき)によって特徴(とくちょう)があり、飾(かざ)られる模様(もよう)も、①のように複雑(ふくざつ)なものから②のように特徴的(とくちょうてき)なもの、③のようにシンプルなものまで、実にさまざまです。だから、土器(どき)をみたら、どこの、いつごろのものかがわかります。 約2800年前の弥生時代(やよいじだい)には、米づくりとともに、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の土器(どき)づくりの技術(ぎじゅつ)が伝わりました。そして、それまでの縄文土器(じょうもんどき)づくりの伝統(でんとう)と合わさって、弥生土器(やよいどき)が誕生(たんじょう)しました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からきた渡来人(とらいじん)と縄文人(じょうもんじん)は、一緒(いっしょ)に土器(どき)をつくったのでしょうか。
竈(かまど)・甕(かめ)・甑(こしき)の復元
朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝わった土器(どき)
弥生土器(やよいどき)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の影響(えいきょう)で、米づくりのための籾(もみ)などを貯(た)めておく「壺(つぼ)」が加わりました。米づくりをはじめたことで、人びとの生活に大きな変化(へんか)があったことが、土器(どき)からわかります。弥生土器(やよいどき)もまた、地域(ちいき)によって、形や模様(もよう)に特徴(とくちょう)がありました(「学んでみよう~地域と個性」をみてね) 古墳時代(こふんじだい)には、弥生土器(やよいどき)の伝統(でんとう)を受けついだ「土師器(はじき)」がつくられます。5世紀ごろに渡来人(とらいじん)によって新しい文化や技術(ぎじゅつ)が伝えられると、土器(どき)もまた変化(へんか)していきます。住居(じゅうきょ)の中にすえたカマドで米を蒸(む)す調理(ちょうり)方法が広まり、水を沸騰(ふっとう)させるための「甕(かめ)」と食べ物を蒸(む)すのに使われた「甑(こしき)」がしだいに広まっていきました。(「調べてみよう~古墳時代 人々の暮(く)らし」をみてね)
須恵器(すえき)
大園遺跡/大阪府
大園遺跡/大阪府
装飾(そうしょく)付き特殊器台
岩橋千塚古墳群/和歌山県
岩橋千塚古墳群/和歌山県
職人技(しょくにんわざ)の「須恵器(すえき)」
土器(どき)づくりにおいて、渡来人(とらいじん)が伝えた新しい技術(ぎじゅつ)はたくさんありました。斜面(しゃめん)を掘(ほ)り、天井をかけた窯(かま)の中で高温(こうおん)に焼(や)いてつくる「須恵器(すえき)」も登場(とうじょう)します。須恵器(すえき)は、丈夫(じょうぶ)で水漏(も)れがしにくく、貯蔵具(ちょぞうぐ)や食器として活躍(かつやく)しました。また、古墳(こふん)にお供(そな)えする、特別に飾(かざ)られた須恵器(すえき)も作られました。須恵器(すえき)をつくるにはたくさんの人手と燃料(ねんりょう)、高い技術(ぎじゅつ)が必要(ひつよう)であったため、各地(かくち)の有力者(ゆうりょくしゃ)が、工房(こうぼう)や専門(せんもん)の職人(しょくにん)を集めてつくらせたと考えられます。
「文様(もんよう)」と
「模様(もよう)」
縄文土器(じょうもんどき)や弥生土器(やよいどき)の多くは、さまざまな模様(もよう)で飾(かざ)られています。これまで、このWEBサイトの他のページでは、「模様(もよう)」という言い方をしているところもありますが、考古学(こうこがく)では、「文様(もんよう)」とよびます。 「模様(もよう)」とは、石や木の板(いた)にあるような自然にできた柄(がら)を含(ふく)む広い意味(いみ)をもちますが、「文様(もんよう)」とは、人間がつけた模様(もよう)をさします。だから、土器(どき)の場合は、「文様(もんよう)」という方が正確(せいかく)なのです。だから、みなさんも、文様(もんよう)という言い方をおぼえてください。
重弧文(じゅうこもん)の文様(もんよう)が
描(えが)かれた、南九州の弥生土器(やよいどき)
描(えが)かれた、南九州の弥生土器(やよいどき)
くるくると棒を回した跡が文様になる
ベンガラ漆が塗られた赤い土器
下宅部遺跡/東京都
提供:東村山市教育委員会
下宅部遺跡/東京都
提供:東村山市教育委員会
変化する文様(もんよう)
①縄文土器(じょうもんどき)
縄文時代早期(じょうもんじだいそうき)には、「押型文(おしがたもん)」とよばれる文様(もんよう)が流行(りゅうこう)します。これは、単純(たんじゅん)な文様(もんよう)を彫刻(ちょうこく)した棒(ぼう)や縄(なわ)ヒモをまきつけた棒(ぼう)を回転(かいてん)させて、痕(あと)をつけたものです。 縄文時代中期(じょうもんじだいちゅうき)には、新潟県(にいがたけん)周辺で出土(しゅつど)する火焔型土器(かえんがたどき)のように、粘土(ねんど)のひもを張(は)りつけて立体的(りったいてき)で豪華(ごうか)な飾(かざ)りをつけたものが、中部地方や関東(かんとう)地方を中心に流行(りゅうこう)します。 縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)になると、こうした文様(もんよう)のほかにも、ベンガラや水銀朱(すいぎんしゅ)などの赤い色が表面に塗(ぬ)られた鮮(あざや)かな土器(どき)や、赤や黒の漆(うるし)が塗(ぬ)られた美しい土器(どき)もありました。
上:緑の粘土に櫛で文様を描いているようす
下:遺跡から出土した土器の文様/大阪府
提供:三好孝一 氏
下:遺跡から出土した土器の文様/大阪府
提供:三好孝一 氏
シンプルで美しい弥生土器
安満遺跡/大阪府
提供:今城塚古代歴史館
安満遺跡/大阪府
提供:今城塚古代歴史館
変化する文様(もんよう)
②弥生土器(やよいどき)
弥生土器(やよいどき)では、細い棒(ぼう)によるシンプルな文様(もんよう)を描(えが)いた土器(どき)が主流(しゅりゅう)になりますが、弥生時代中期(やよいじだいちゅうき)になると、細い棒(ぼう)を束(たば)ねた道具で、繊細(せんさい)な直線や波線(はせん)を描(えが)いた「櫛描文(くしがきもん)」が中国地方、四国地方、近畿(きんき)地方を中心に流行(りゅうこう)します。 弥生土器(やよいどき)の文様(もんよう)は、後期(こうき)になるとしだいにシンプルなものに変化(へんか)します。文様(もんよう)がまったく描(えが)かれない土器(どき)も多くなり、古墳時代(こふんじだい)の土師器(はじき)に受けつがれていきます。
「土器(どき)」を調べる
土器(どき)の表面には、文様(もんよう)には見えないけれど、人間がつけたような跡(あと)が言えているものがあります。それは、土器(どき)をつくったときのさまざまな作業(さぎょう)の跡(あと)です。その跡(あと)をよく観察(かんさつ)すると、どのような道具を使って、どのように仕上げたのかがわかります。 下の写真を見てください。「ナデ」は、指(ゆび)や板(いた)でなでて表面をなめらかにした跡(あと)、「タタキ」は、板で叩(たた)いて粘土(ねんど)をかためた跡(あと)、「ミガキ」は、ツルツルした石などで表面をていねいにみがいた跡(あと)です。いずれも、作業の途中(とちゅう)についたものです。
(桜井市埋蔵文化財センター解説書「土器からのメッセージ」より)
土器の底の圧痕
提供:山梨県埋蔵文化財センター
提供:山梨県埋蔵文化財センター
土器(どき)づくりの作業台
土器(どき)をひっくりかえして、底(そこ)を見てみると、模様(もよう)のような跡(あと)がついていることがあります。それは、土器(どき)をつくるときについた、作業の跡(あと)です。それらをよく観察(かんさつ)すると、木の葉や植物をあんだもの、布や板など、どんな敷物(しきもの)や作業台を使っていたかがわかります。 これらの敷物(しきもの)は、形をつくったり、文様(もんよう)をつけたりするときに、土器(どき)を少しずつ回転(かいてん)させ、位置(いち)をずらすときにも便利(べんり)だったのでしょう。縄文時代前期(じょうもんじだいぜんき)の九州では、クジラの背骨(せぼね)を土器(どき)づくりの台に使ったことが、土器(どき)の底(そこ)についたデコボコの跡(あと)からわかりました。