- 遺跡数7,556か所
- 面 積1,905㎢
大阪府(おおさかふ)は、大きさでいえば、46番目という小さな都道府県です。北部に淀川(よどがわ)、南には奈良(なら)に源流(げんりゅう)をもつ大和川(やまとがわ)が流れ、西側の瀬戸内海(せとないかい)にそそいでいます。現在では、この2つの川が運んだ土砂(どしゃ)によって、全国でも有数の大きさの大阪平野(おおさかへいや)が広がる地域(ちいき)です。しかし、古くには大きな湾(わん)が広がり、四国(しこく)や中国地方、九州地方など西日本各地との交流が盛(さかん)でした。また、川や陸路(りくろ)を通して、東へもつながっていることから、交通の中心として発達した地域(ちいき)です。弥生時代(やよいじだい)には、平野を利用した田んぼでの米づくりが広い範囲(はんい)でおこなわれ、まわりを濠(ほり)でかこんだムラ・環濠集落(かんごうしゅうらく)が発達しました。古墳時代(こふんじだい)以降になると、東の奈良県(ならけん)とともに日本列島(れっとう)の中心となり、百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)などの巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)もつくられました。
銅鐸(どうたく)の鋳型(いがた)東奈良遺跡(ひがしならいせき) 国指定重要文化財
石にこまかいもようを彫(ほ)りこんだ、銅鐸(どうたく)の鋳型(いがた)です。このように完全な形でみつかることは、全国でも珍しいです。この鋳型(いがた)に、とかした金属(きんぞく)を流しこんで固めると、銅鐸(どうたく)ができるのです。この鋳型(いがた)でつくった銅鐸(どうたく)は、大阪(おおさか)のほか、兵庫県(ひょうごけん)や香川県(かがわけん)でも出土(しゅつど)しています。このほかにも、銅戈(どうか)の鋳型(いがた)や青銅器(せいどうき)づくりに必要ないろいろな道具、さらにガラスのまが玉・小玉(こだま)をつくる鋳型(いがた)もみつかりました。東奈良遺跡(ひがしならいせき)は、ものづくりの工場みたいな遺跡(いせき)ですね。
家形埴輪(いえがたはにわ)美園遺跡(みそのいせき) 国指定重要文化財
古墳(こふん)の周溝(しゅうこう)から家形埴輪(いえがたはにわ)2個と壺形埴輪(はにわ)25個体以上、それに土器(どき)小片多数がみつかりました。家形埴輪(いえがたはにわ)は、高床式(たかゆかしき)の建物を表現したもので、高さは70cmもあり、建物の形や屋根(やね)の構造など、とても細かく作られています。ビックリするのは、建物の中にベッドのようなものまで表現されていることです。ベッド以外の床や壁(かべ)は赤くぬられています。こういう、家の形をした埴輪(はにわ)は、古墳(こふん)の上に置(お)かれることが多いことから、亡くなった首長(しゅちょう)の魂(たましい)が住む家だという意見もあります。
修羅(しゅら)三ツ塚古墳(みつづかこふん) 国指定重要文化財
藤井寺市(ふじいでらし)の三ツ塚古墳(みつづかこふん)の周濠(しゅうごう)でみつかった、重い荷物(にもつ)を運ぶための巨大なソリで、「修羅(しゅら)」とよばれています。全長8.8㍍、重さ3.2トンの二股(ふたまた)にわかれたアカガシの1本の木から作られています。この上に重たい石などをのせて、みんなで引っぱります。古墳の石室(せきしつ)をつくる石や石棺(せっかん)などを運(はこ)んだあと、そのまま濠(ほり)に捨てられたのでしょうか。修羅(しゅら)は、この後の時代にも重い物を運ぶのに使われました。京都の金閣寺(きんかくじ)の庭からも、同じような修羅(しゅら)が出土(しゅつど)しています。