741年、聖武天皇は「それぞれの国(くに)に立派なお寺を建てなさい。これは、男性のお坊さんが住む寺と、女性のお坊さんが住む寺のふたつとしなさい」という命令を発布しました。「国」とは今でいう都道府県のような地域区分です。この命令によって建てられたお寺のうち、男性の僧侶の寺が「国分寺(こくぶんじ)」、女性の僧侶(尼)の寺が「国分尼寺(こくぶにじ)」です。ですからこの聖武天皇の命令を「国分寺建立(こんりゅう)の詔(みことのり。天皇の命令)」と言っています。京都府の中部から兵庫県の中東部は、古代には「丹波国(たんばのくに)」と呼ばれていました。とうぜん、ここにも丹波国の国分寺と国分尼寺が建てられています。京都府亀岡市の市街地から北へ3kmほど離れた田園地帯に、今も「国分寺」というお寺があります。今は小さなお寺に変わってしまっていますが、かつては非常に大きな寺院だったはずです。境内には一辺が約24mの塔の基壇(きだん)が残っており、そこに残されている礎石(そせき)は非常に立派なもので、丹波国分寺の塔がすばらしく巨大であったことを示しています。その西側では、発掘調査によって金堂(こんどう。寺院の中心となる建物)が確認されています。また、国分寺から西へ約300mほどいったところでは「御上人林廃寺(おしょうにんばやしはいじ)」と呼ばれるお寺の跡が発掘されています。東西約150m、南北約179mの敷地の中にいくつもの建物が建てられており、これが丹波国の国分尼寺だったと考えられています。
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現在の様子 | 現在も、国分寺(こくぶんじ)として寺院(じいん)が現存(げんぞん)し、国の史跡(しせき)として保存(ほぞん)されています |
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