- 遺跡数17,865か所
- 面 積8,480㎢
広島県(ひろしまけん)は、瀬戸内海(せとないかい)に面(めん)しており、北部九州と近畿(きんき)地方との中間にあります。中国山地(ちゅうごくさんち)をこえれば、山陰(さんいん)地方とつながり、海をこえれば、四国地方ともつながる地域(ちいき)であることから、古くからいろいろな地域(ちいき)との交流が活発(かっぱつ)に行われました。中国(ちゅうごく)地方の中心に広がる中国山地(ちゅうごくさんち)は、瀬戸内海(せとないかい)に向かって階段のように低くなっています。海のすぐそばまで山が迫(せま)っているので、広島県(ひろしまけん)は、瀬戸内海(せとないかい)にある大小138の島々もふくめて、平地がとても少ないことが特徴(とくちょう)です。そのため、川や海を見下ろす丘(おか)の上で遺跡(いせき)がみつかることが多いです。丘(おか)の上に古墳(こふん)がたくさん集まって作られることも多く、三次(みよし)地域(ちいき)の浄楽寺・七ツ塚古墳群(じょうらくじななつづかこふんぐん)は、その一つの例です。三次(みよし)地域(ちいき)には、広島県(ひろしまけん)にある古墳(こふん)の約3分の1にあたる4000もの古墳(こふん)が作られており、また弥生時代(やよいじだい)の終わりごろに、山陰(さんいん)地方や北陸(ほくりく)地方などに多くみられる四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、三次(みよし)がはじまりだという説もあります。
くっついた石器(せっき)冠遺跡群(かんむりいせきぐん)
冠遺跡群(かんむりいせきぐん)でみつかった、重さ約108キロ、日本最大(さいだい)の接合資料(せつごうしりょう)です。接合資料(せつごうしりょう)とは、石器(せっき)をつくるために割(わ)られた石のカケラたちを、元通りにくっつけたもののことで、それによって、どんなふうに石をわって石器(せっき)をつくろうとしたかがわかるのです。しかし、たくさんの石のカケラから、くっつくものをみつけるのは、とても大変なことです。冠遺跡群(かんむりいせきぐん)では、石器(せっき)を作るための材料(ざいりょう)となる剥片(はくへん)、石を割(わ)ってできた石くず、失敗品などあわせて59点がくっつきました!すごいでしょ。その結果、もとは200kgほどあった安山岩(あんざんがん)のかたまりを 50~60㎝ほどの大きさに割(わ)り、それをさらに拳(こぶし)ぐらいの大きさに割(わ)ってから、石器(せっき)に加工(かこう)していたことがわかりました。しかし、完全にもとの大きさには戻っていません。みつからない部分は、旧石器人(きゅうせっきじん)が、遺跡(いせき)からもって行ったと考えられます。このような大きな石を一人で割(わ)ることはとてもむずかしいため、何人かで作業を行ったのかもしれません。3万年前の石器(せっき)の作り方がわかる、とても貴重(きちょう)な資料(しりょう)です。
サメの骨(ほね)でつくった耳かざり陽内遺跡(ようちいせき) 県指定文化財
陽内遺跡(ようちいせき)は、中国山地(ちゅうごくさんち)にある、縄文時代早期(じょうもんじだいそうき)から中期(ちゅうき)の遺跡(いせき)です。墓(はか)と思われる土坑(どこう)のそばから、山陰(さんいん)の海でとれたサメの骨(ほね)でつくった耳かざりがみつかりました。耳かざりは、直径が約17㎜(一円玉より小さい)、厚(あつ)さ約7㎜ほどの小さいものですが、ていねいに磨(みが)かれてつくられていました。耳かざりは2つで1セットですが、2つ一緒にみつかっているのは県内でここだけです。ほかのお墓(はか)からは、岡山県(おかやまけん)西部でよくみられる縄文土器(じょうもんどき)もみつかっており、山間部(さんかんぶ)の地域(ちいき)が日本海沿岸部(えんがんぶ)と瀬戸内(せとうち)の両方と交流をもっていたことがわかります。
銅鐸(どうたく)・銅剣(どうけん)・銅戈(どうか)木の宗山遺跡(きのむねやまいせき) 国指定重要文化財
木の宗山遺跡(きのむねやまいせき)では、烏帽子岩(えぼしいわ)とよばれる大岩の下から銅鐸(どうたく)、銅剣(どうけん)、銅戈(どうか)が出土(しゅつど)しています。銅鐸(どうたく)は、高さ約19cm・最大幅(はば)11.3㎝と小型のもので、邪視文(じゃしもん)とよばれる、二つの目のようなあやしいもようをもっています。銅剣(どうけん)は長さ39.7cm、銅戈(どうか)は長さ29.5cmで、いずれも先端(せんたん)が欠けています。邪視文(じゃしもん)のある銅鐸(どうたく)は、福田型(ふくだがた)とよばれ、鋳型(いがた)が佐賀県(さがけん)で出土(しゅつど)していることから、木の宗山遺跡(きのむねやまいせき)の銅鐸(どうたく)は、銅剣(どうけん)・銅戈(どうか)とともに、北部九州で作られたものと考えられます。
特殊器台(とくしゅきだい)・特殊壺(とくしゅつぼ)矢谷墳丘墓(やだにふんきゅうぼ) 国指定重要文化財
矢谷墳丘墓(やだにふんきゅうぼ)から出土(しゅつど)した墓(はか)での祭(まつ)りに使われた特別な土器(どき)です。吉備(きび)南部(岡山県南部)で作られたものが運ばれてきています。この特殊器台(とくしゅきだい)は、高さ約1mほどの大きなもので、渦巻(うずまき)や三角形の透(す)かしなど、たくさんの模様(もよう)でかざられています。筒型(つつがた)で、上に特殊壺(とくしゅつぼ)がのり、セットで使用されます。特殊壺(とくしゅつぼ)は底に穴(あな)があけられており、壺(つぼ)として使うものではなく祭り用の土器(どき)であることがよくわかります。いずれも表面は赤く塗(ぬ)られています。
双龍環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら)二子塚古墳(ふたごづかこふん)
全長9㎝、環(かん)は7.8×6.2㎝で、青銅(せいどう)にていねいに模様(もよう)をほりこみ、金メッキをしています。柄頭(つかがしら)は、刀の持ち手(柄 つか)の先端(せんたん)についたかざりで、双龍(そうりゅう)があるものは、ふつうは向かいあった2頭(とう)が1つの玉をくわえているのに対し、二子塚古墳(ふたごづかこふん)でみつかったものは、2頭(とう)がそれぞれ玉をくわえている、めずらしいものです。日本列島(れっとう)でつくられたもので、ヤマト政権(せいけん)から贈(おく)られたものと思われます。刀の本体部分はみつかっていません。