栃木県とちぎけん
  • 遺跡数8,387か所
  • 面 積6,408㎢
みーたん
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栃木県(とちぎけん)は、関東平野(かんとうへいや)の一番北にある内陸(ないりく)の県なので、残念ながら海はありません。お隣(となり)の群馬県(ぐんまけん)や福島県(ふくしまけん)とせっする部分は、大部分が山地で、ここを水源(すいげん)とする鬼怒(きぬ)川・那珂(なか)川・渡良瀬(わたらせ)川の三大河川(かせん)が作りだす平野は、県全体の面積の半分くらいです。遺跡(いせき)も、ほぼこの平らなところにかぎられますので、遺跡(いせき)の数は少なくなります。東日本の各県からは、いろいろな縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(いせき)や遺物(いぶつ)が発見(はっけん)されているので、縄文文化(じょうもんぶんか)が華(はな)やかに発展(はってん)したと思われます。
このことを示すように、栃木県(とちぎけん)にも国の史跡に指定された根古谷台遺跡(ねごやだいいせき)や寺野東遺跡(てらのひがしいせき)があります。

うちのお宝 ベスト5

  • 玦状耳飾(けつじょうみみかざり)

    玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)根古谷台遺跡(ねごやだいいせき) 国指定重要文化財

    根古谷台遺跡(ねごやだいいせき)は、いくつもの大きな建物がドーナツ状にならぶ縄文時代前期(じょうもんじだいぜんき)のムラの跡(あと)で、その中央広場からは300をこえる墓壙(ぼこう)が発見されました。その中のいくつかからは、石で作った玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)が2つで1組のペアになって出土(しゅつど)しました。また、別の墓でも、石で作った丸玉やくだ玉が出土(しゅつど)しているので、アクセサリーをつけたままで埋葬(まいそう)されたことを示しています。中でも直径60mmをこえる玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)は、まずその大きさにおどろかされます。さらに、材料となる石の選び方や高度な技術(ぎじゅつ)をつかった作り方などは、ほかに例のない、すぐれた品であると言えます。

  • イヌ形土製品(いぬがたどせいひん)

    イヌ形土製品(いぬがたどせいひん)藤岡神社遺跡(ふじおかじんじゃいせき) 国指定重要文化財

    藤岡神社遺跡(ふじおかじんじゃいせき)で出土(しゅつど)したイヌ形土製品(いぬがたどせいひん)は、縄文時代後期(じょうもんじだいこうき)のもので、全長16.3cm、高さ7.7cmの大きさは国内最大級(さいだいきゅう)です。大きく口を開け、前足をふんばったようすは躍動感(やくどうかん)に満ちあふれ、今にも獲物(えもの)に飛びかかる「狩(か)り」を表現したものでしょう。お腹には「×」印によって「おへそ」が描(えが)かれ、われわれ現代人とまったく同じ縄文人(じょうもんじん)の感じ方に驚(おどろ)かされます。遺跡(いせき)からは、埋葬(まいそう)された犬の頭の骨(ほね)が出土(しゅつど)していますので、これが土製品(どせいひん)のモデルなのでしょう。2018年10月に、フランスのパリで開かれた「ジャポニズム2018特別展」で展示(てんじ)されました。

  • 人面付土器(じんめんつきどき)

    人面付土器(じんめんつきどき)大塚古墳群内遺跡(おおつかこふんぐんないいせき)

    大塚古墳群内遺跡(おおつかこふんぐんないいせき)では、弥生時代中期(やよいじだいちゅうき)の墓壙(ぼこう)がまとまって発見され、その中でいちばん大きい墓壙(ぼこう)から人面付土器(じんめんつきどき)が出土(しゅつど)しました。その大きさは高さ13.7cmで、頭のてっぺんが容器(ようき)の口になっています。首の下には胴(どう)があったと思われますが、失われています。人面(じんめん)は、とても写実的(しゃじつてき)で、眉・鼻・耳そして顎(あご)の表現は、粘土(ねんど)をはり付けて、立体的(りったいてき)に作っています。表情を大きく印象(いんしょう)づける目は、太い一本の線で描(えが)かれていますが、これは「眠り」あるいは「死」とも考えられます。弥生時代中頃(やよいじだいなかごろ)の東日本では、白骨化(はっこつか)した骨(ほね)を遺骨(いこつ)として(つぼ)などに入れて埋納(まいそう)する、再葬墓(さいそうぼ)が多くみられます。もともとこの人面土器(じんめんどき)も、その利用のために作られた容器(ようき)と考えられます。

  • 銀装円頭大刀(ぎんそうえんとうたち)

    銀装円頭大刀(ぎんそうえんとうたち)別処山古墳(べっしょやまこふん) 県指定有形文化財

    1985年に調査(ちょうさ)された全長37mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)から、長さ97.2cm、重さ706gのきらびやかな大刀(たち)が1本出土(しゅつど)しました。大刀(たち)は、銀板(ぎんばん)や銀線(ぎんせん)をつかって美しい模様(もよう)で飾(かざ)り、手で持つところに鈴(すず)をいれるなど、すぐれたデザインと高い技術(ぎじゅつ)で作られています。そのデザインや技術(ぎじゅつ)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)的な特徴(とくちょう)もみられます。同じような大刀(たち)は、奈良県(ならけん)の藤ノ木古墳(ふじのきこふん)にしかありません。この別処山古墳(べっしょやまこふん)に葬(ほうむ)られた人は、この地域(ちいき)の有力者(ゆうりょくしゃ)であっただけでなく、ヤマト政権(せいけん)とも関係をもつ、重要な人物であったと考えられます。

  • 舟形木棺(ふながたもっかん)

    舟形木棺(ふながたもっかん)下野七廻り鏡塚古墳(しもつけななまわりかがみづかこふん) 国指定重要文化財

    1969年、住宅地を作っていたブルドーザーが古墳(こふん)(直径30mの円墳か)を壊(こわ)した時、全長5.49m、幅(はば)1.08mの国内最大級(さいだいきゅう)の舟形木棺(ふながたもっかん)がみつかりました。舟形木棺(ふながたもっかん)やその内部の副葬品(ふくそうひん)は、湧水(わきみず)を大量にふくむ土のなかで、ほぼ1,500年前の状態がたもたれていました。木棺(もっかん)は、直径1.2m以上のヒノキを半分に割(わ)り、その内側をくりぬいて作っています。舟形木棺(ふながたもっかん)の全体の形がわかった貴重(きちょう)な例です。また、副葬品(ふくそうひん)の三輪玉(みわだま)がついた大刀(たち)、黒い(うるし)を塗(ぬ)った弓(ゆみ)、(ほこ)、矢柄(やがら)が付いた鉄鏃(てつぞく)なども、当時のすがたをよく残しており、古墳文化(こふんぶんか)を研究(けんきゅう)する上でなくてはならない資料(しりょう)です。

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