- 遺跡数6,261か所
- 面 積7,282㎢
奥羽山脈(おううさんみゃく)の東側にあり、太平洋(たいへいよう)に面する宮城県(みやぎけん)には、旧石器時代(きゅうせっきじだい)からの数多くの遺跡(いせき)が残されています。旧石器時代(きゅうせっきじだい)の遺跡(いせき)は、ほとんどが丘(おか)や台地の上にありますが、富沢遺跡(とみざわいせき)は、平野の低湿地(ていしっち)にあるのが特徴(とくちょう)です。縄文時代(じょうもんじだい)には、大木囲貝塚(だいぎがこいかいづか)や里浜貝塚(さとはまかいづか)などの貝塚(かいづか)がみられ、ムラは、丘(おか)や台地だけでなく、平野のなかで少し高まったところにもつくられます。弥生時代(やよいじだい)になると、沓形遺跡(くつがたいせき)や中在家南遺跡(なかざいけみなみいせき)など、米づくりや住まいに適(てき)した平野に、ムラが数多くいとなまれます。古墳時代(こふんじだい)には、平野のムラの規模(きぼ)が大きくなり、その数も増え、雷神山古墳(らいじんやまこふん)や遠見塚古墳(とおみづかこふん)などがつくられます。他の地域(ちいき)との関係については、縄文時代(じょうもんじだい)の終わりごろから中部・関東や西日本との交流が活発になり、米づくりが伝わって弥生文化(やよいぶんか)が成立(せいりつ)します。そして、弥生時代(やよいじだい)の終りごろから古墳時代(こふんじだい)にかけては、北海道の続縄文(ぞくじょうもん)時代の土器(どき)が発見される、太平洋(たいへいよう)側のいちばん南の地域(ちいき)です。また、古墳時代前期(こふんじだいぜんき)と後期(こうき)には、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられる、いちばん北の地域(ちいき)です。このように、宮城県(みやぎけん)は、日本列島(れっとう)における時代の変化や文化の境界(きょうかい)を考えるうえで、重要な地域(ちいき)といえます。
シカのフン富沢遺跡(とみざわいせき)
旧石器時代(きゅうせっきじだい)の調査(ちょうさ)で、シカのフン(糞)が、10個から100個ほどのまとまりをもって20か所以上でみつかりました。それぞれ1回分のフンです。フンは、1個の大きさが、長さ2~3cm、幅(はば)約2cmで、土でおされて平らになっていました。そこで、いま生きている鹿(しか)のフンをつぶして比べたデータから元の大きさに復元(ふくげん)すると、長さ20.4mm、幅(はば)11.4mmになりました。その大きさから、落とし主(ぬし)は、ヘラジカやオオツノジカなどの大型のシカではなく、ニホンジカくらいのシカと思われます。
腰飾(こしかざ)り里浜貝塚(さとはまかいづか) 国指定重要文化財
里浜貝塚(さとはまかいづか)からみつかった、シカの角(つの)で作られた骨角器(こっかくき)と呼(よ)ばれるものです。他の遺跡(いせき)のお墓(はか)から、人間の腰(こし)の部分でみつかったため、腰飾(こしかざ)りと考えられています。今は白っぽい見た目をしていますが、使われていたころは、ベンガラで赤く塗(ぬ)られていたと考えられています。