- 遺跡数3,181か所
- 面 積6,113㎢
山口県(やまぐちけん)は、三方(さんぽう)を海にかこまれ、旧石器時代(きゅうせっきじだい)から、北部九州(ほくぶきゅうしゅう)や瀬戸内(せとうち)・山陰(さんいん)の影響(えいきょう)を受けやすい地域(ちいき)でした。とくに、弥生時代(やよいじだい)には、響灘沿岸(ひびきなだえんがん)を中心に、早い段階(だんかい)で米づくりの文化を受け入れ、北部九州をはじめ中国大陸(ちゅうごくたいりく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の品々が運ばれて来ています。この時代には、綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)のような大きなムラや、全国でいちばん多い、300体以上の人の骨(ほね)がみつかった土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)なども残されています。また、弥生時代(やよいじだい)の終わりごろ、県東部を中心に高地性集落(こうちせいしゅうらく)とよばれる戦いにそなえた遺跡(いせき)が多くみつかっており、中国の歴史書(れきししょ)『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)に、このころの日本列島(れっとう)で戦乱(せんらん)が起きていたと書かれていることを示すとされています。県内でみつかっている前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は30と少なめですが、最大(さいだい)の白鳥古墳(しらとりこふん)は、全長120mで、瀬戸内(せとうち)西部でも最大級(さいだいきゅう)の大きさです。
弥生(やよい)の土笛(つちぶえ)綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき) 県指定有形文化財
弥生時代(やよいじだい)の土笛(つちぶえ)です。高さ7.1cm、最大(さいだい)径6.4cmの卵形(たまごがた)で、片側(かたがわ)に4つ、反対側に2つの小さな穴(あな)があいています。なかは空洞(くうどう)で、上にあいた穴(あな)に息を吹きかけ、6つの小さい穴(あな)を指で押さえて、音を調整(ちょうせい)します。古代(こだい)中国の陶塤(とうけん)という楽器(がっき)がもとになったもので、まつりの時に吹いたと考えられています。山陰(さんいん)地方を中心に、日本海沿岸(えんがん)の遺跡(いせき)からみつかりますが、綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)で最初にみつかりました。
有柄細形銅剣(ゆうへいほそがたどうけん)王屋敷遺跡(おうやしきいせき) 国指定重要文化財
長さ約44cmの弥生時代(やよいじだい)の中ごろの銅剣(どうけん)です。明治時代(めいじじだい)、現在の長門市油谷向津具下(ながとしゆやむかつくしも)で、くずれた山の土の中から偶然(ぐうぜん)みつかりました。同じ形のものは、佐賀県(さがけん)の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)でしかみつかっていませんので、この銅剣(どうけん)を持っていたのは、かなりの有力者(ゆうりょくしゃ)だと考えられます。最近、発見場所の近くで弥生時代(やよいじだい)のムラがみつかり、この銅剣(どうけん)をもつほどの有力(ゆうりょく)な集団が育っていたことが確認(かくにん)されました。
甕(かめ)に入った中国の銭(ぜに)沖ノ山遺跡(おきのやまいせき) 県指定有形文化財
江戸時代(えどじだい)の中ごろ、現在の宇部市(うべし)小串沖ノ山(こぐしおきのやま)の砂の中から、農民が発見しました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でつくられた土器(どき)の中に、中国の銅銭(どうせん)である「半両銭(はんりょうせん)」 と「五銖銭(ごしゅせん)」が合わせて100枚以上入っていました。日本の弥生時代(やよいじだい)の中ごろのもので、全国でもほかに例のない貴重(きちょう)なものです。弥生時代(やよいじだい)にはお金を使うことはありませんので、銅鐸(どうたく)などの青銅器(せいどうき)をつくる原料(げんりょう)として輸入(ゆにゅう)したものかもしれません。